ずっとこれからも (後編)(SIDE M)





目を開けたら目の前に裸の背中があった。 見慣れた背中だ。
部屋はまだ暗かった。
つまりまだ朝じゃない、とぼんやり認識して
再び眠りの淵に沈もうとしたところで、それが目に入った。

左右の肩甲骨の辺りにくっきりと刻まれた、夜目にも鮮やかな赤い数本の線。
痛そう、と浮かんだ後一拍してから付けたのが他でもない自分だと気付いた。
一気に眠気が飛んだ。

それくらい、その痕ははっきりしていて痛々しかった。
夢中でしがみついたのは朧に覚えているけど、理性などゼロに近かった。
こんなに深く爪を立てていたなんてわかっていなかった。
けれど紛れもなく残っている証拠に、今さら青くなった。
規則正しい寝息が聞こえる、ということは阿部は熟睡しているのだろうけど。

(ごめんね・・・・・・・・・・)

そうっと、三橋は傷を舐めた。
この傷では数日残るだろう。 痛みだってあるに違いない。
朝になったら自分が消毒して手当てをしよう、と思いながらも申し訳なさが募る。 
同時に相反するような感情が身の内に潜んでいることを自覚した。
ぞくぞくと湧き上がるそれは、三橋にとっては許容できないものだった。

なので、恥ずかしくなった。
その感情の理由が簡単にわかったからだ。
以前からあったそれは、弱まるどころか強くなっているのに、
そんな自分に対する嫌悪感もまだ健在だ。
小さく葛藤したせいで眠気はますます飛んでしまい、無心に舐め続けていると。

「・・・・・・・またたっちまう」

不穏な言葉が聞こえて、ぎょっとして舌を引っ込めた。 
いつのまに寝息が消えたのか、全く気付かなかった。

「お、起きて・・・・・」

固まっているとゆっくりと目の前の体が向きを変えた。
おそるおそる見れば予想外に穏やかな顔は、困っているようにも見えた。
三橋は小さくなった。

「起こして、ごめんなさい・・・・・・」
「いいけどさ、また妙な気になっちまうから」
「あ、うん。 やめる・・・・・」

言外の意味を汲んだ三橋はさらに縮こまった。
傷を付けたことも謝ろうと口を開いたところで、阿部が言った。 優しい声だった。

「無理させてごめんな?」
「えっ あの、オレこそ、引っ掻いて」
「いいよ」
「でも、ごめんなさい・・・・・」
「・・・・・・オレは嬉しいから、いいよ」
「へっ」
「だって愛の証みたいだろ?」

冗談みたいな軽い口調とは逆に目が真剣なことに、三橋は気付いた。

「すぐ消えるけどな」

別の何かが、阿部の目に掠めた。
それを認めた途端に、言いたいことが浮かんだ。
さっき揉み消した感情を正直に言えば、喜んでくれるかもしれない。
躊躇ってしまったのは 「図々しい」 と習性が邪魔をしたからだけど、
その間に阿部は話題を変えてしまった。 表情と口調も、いっしょに変えた。

「ちゃんと、やるから」
「・・・・・へ?」
「さっき言ってたやつ。 肉マンとチョコとメロンパン」
「えっ・・・・・・」
「全部やるな」
「・・・・・うん」

不自然なほど明るく言ってから、阿部は思い出したように
ベッド脇にある時計を見た。 0時はとうに過ぎているだろう。

「誕生日おめでとう、三橋」
「あ、ありがとう!」
「会ってから何度目だっけ?」

穏やかな笑みに三橋はふいに泣きたいような気分になった。
衝動を抑えられない。 溢れてくる想いを言葉にしたい。 
さっき呑み込んだことだって、伝えたい。

「あのあの、阿部くん!」
「ん?」
「これからも よろしく」
「・・・・・・おお」
「あと、ね」
「うん」

三橋は息を吸い込んだ。 
正直に言いたいのは自分のためだけじゃない。
祈るようにそう思った。

「傷、 オレも 嬉しい、んだ」
「え?」
「だって、付いてる間は 阿部くんが、オレのって証拠みたい、だから」

言えた、 とホッとして笑うと目の前の顔が呆けた。
次に赤くなった。 それからぎゅっと目を瞑って、また開けた。
開いたと思ったらやにわに勢いよく起き上がった。

「・・・・・・・やめた」
「へ?」
「延期すんのやめた」
「・・・・??」

なにを? と疑問符でいっぱいになった三橋にはお構いなしに
阿部はベッド脇の棚に手を伸ばした。
わけがわからないながらも三橋も起き上がって待つと、
阿部は引き出しから何かを出して無造作に差し出してきた。 
反射的に手が出て、受け取った。 小さな箱だった。

「やる。」

ぼそりと言われてから。

「・・・・・・良かったら、だけど」

もっと無愛想に付け加えられた。 目もあらぬ方向を睨んでいる。
三橋は渡された箱を改めて見た。
綺麗にラッピングされてリボンがかかっている。
ということはこれはつまり、誕生日のプレゼントなんだろうか。

「開けていい・・・・?」
「うん」

頷いた阿部の目はやっぱり自分を見てくれない。
不審を感じたけれど、とりあえず開けようと気を取り直した。
阿部の常にない雰囲気に緊張しながら丁寧に包装紙を取り去ると、
ビロード張りの箱が現れた。 蓋を開けて中身を見た。
じっと、それに見入っていると早口の声が聞こえた。

「あー、あのさ 大した意味じゃねーんだ」
「・・・・・・・・。」
「いや意味は、なくもないけど、だからつまりヤだったら無理しなくていいから」
「・・・・・・・・。」
「グリコのオマケみたいなもんだからさ」

いかにも軽い口調のそれを聞きながら、三橋は尚も見つめ続けた。
豆電球の弱い光を弾いてそれはきらきらと輝いていた。
見ているうちに光がぼやけた。
それ以上ぼやけないように三橋はぐっと腹に力を入れた。

顔を上げると、視線が合った。 
言葉の内容とは逆に、真剣で不安そうな目だった。
今度は逸らされなかったので、まっすぐに見つめ返した。

「阿部くん」
「お、おお、 なに?」
「嵌めて、ください」

ぱかりと、阿部の口が開いた。 目も丸くなった。
その顔が可笑しくて三橋は小さく笑った。
可笑しくて幸福で、笑った。
三橋の差し出した左手を阿部はその顔のまま見下ろした。

「・・・・・・どの指がいい?」
「阿部くんの好きな、指がいい」

阿部は俯いた。 それからゆっくりと、片方の指輪を取り出して
三橋の指に嵌めてくれた。
その手を三橋は眺めた。 
銀色の光に包まれた自分の薬指をうっとりと見つめた。
法律的には何の意味もないものだけれど。

「ありがとう、阿部くん」
「・・・・・うん」
「すごく、嬉しい」

顔が見えないのは阿部がまだ俯いているせいだけど、
そうでなくてもちゃんと見えないな、と三橋は思った。
でもこれは嬉しいがための涙だから、阿部もきっと怒らないだろう。
けど、 と三橋はそれ以上溢れないようにまた堪えた。
まだやりたいことがあるからだ。
けれど待っていても、阿部がちっとも顔を上げてくれないので。

「あの、阿部くん・・・・・?」
「ん」
「これ、もう1つあるけど」
「ん」
「阿部くんの、だよね・・・・?」
「ん」
「オレも 阿部くんに 嵌めたい、んだけど」
「・・・・・・・・・ん」

頷いてくれてホッとしたものの、阿部は俯いたままだ。
その時ひっそりと吐き出された息は三橋には馴染み深いもので、
それで阿部の状態に気付いてしまった。
だからしばらく待っていた。
自分のほうをその間に止められるし、ちょうどいいと思った。
実際止めることができて、安心して待てど阿部は依然として顔を上げない。
少しだけ不安になった。

「・・・・・阿部くん?」

呼ぶと 「くそっ」 と小さなつぶやきが聞こえた。 
続いて聞こえた声は微かに震えていただけでなく、
ぶつぶつと途切れがちだった。 まるで自分が移ったように。

「・・・・・・・16」
「・・・・・・へ?」
「・・・・・・・最初に あげようと 思ったのが、16ん時」
「え」
「あん時 渡したら、・・・・・・おまえきっと、困っただろ?」

う、 と三橋は胸の内で唸った。 そのとおりだった。
阿部が16と言えば高校2年だ。 
付き合い始めて半年かそこらのその頃、物を貰うのさえ恐れたのに
ましてや指輪など。

「・・・・・・オレは」
「うん・・・・・」
「さんざん、 待ったんだから、」
「・・・・うん」
「・・・・・・・・おまえも、少しくらい待て」
「うん」

待つよ、 と三橋は思った。

朝までだって待つ自信がある。
だってこんなに幸福な時間なんだから、いくら長くたって全然平気だ。
そう思ったところで阿部が息を1つ、吐いた。
そして改まったような声で呼んだ。 相変わらず顔は見えなかったけど。

「三橋」
「なに・・・・・?」
「・・・・・だよ」

掠れた声で告げられた、その言葉を三橋はちゃんと聞いた。
それで視界がまたぶわっとぼやけてしまった。 ずるい、と思った。
たまには聞ける言葉だけど、こんな時にそんなふうに言うなんてずるい。
せっかく止まっていたのに元の木阿弥だ。
盛大に溢れてしまった涙は今度は簡単に止まりそうにない。

けれどやっぱり三橋は楽しみで仕方がない。
正式には何の意味ももたないし、今までと何が変わるということもないのだろうけど
阿部の指に、自分も嵌めたい。
その後でさっきの言葉に返事をしよう。  オレも、と言いたい。

オレも好きだよ、阿部くん。  これからもずっと。

そう言ったらきっと照れたように、でも間違いなく笑ってくれる。
その笑顔が見たい。

(幸せ、だな・・・・・・・・)

それをくれた人を、同じように幸せにできるのは自分だけなのだ。
素直にそう認めることができる幸福を、心から噛み締める。
何て長い時間をかけてくれたのだろう。 

だからいくらでも待つよ、 とまた思う。

でも三橋は知っている。 確信している。
だって阿部は誰よりも優しいから。


それはきっともうまもなく、叶うのだ。















                                  ずっとこれからも 了
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