言わぬが花



    


その朝三橋が目覚めた瞬間の気分は 「最悪」 だった。
まず感じたのは頭痛だ。 がんがんと割れるように痛む。
原因はすぐにわかった。

昨日の夜に飲んだ酒のせいだ。
見るからに高級そうなその日本酒は、親戚から貰ったものだった。
「廉ももう大人だしな」 という前置きの次に
「本物の味を覚えることは大事だ」 と付け加えられただけあって
多分良いものだったのだろう。
正月の帰省の折に貰ったそれを抱えて戻ってきた時に
阿部が大層喜んでくれたことは、まだ記憶に新しい。

「あれ飲んでみない?」 と阿部が昨日提案したのはおそらく翌日、
つまり今日2人ともに何の予定もないからだろう。
いつもなら大いに躊躇うはずの誘いに頷いてしまったのは
せっかく貰ったんだから、という気持ちが大きかった。

双方とも法律的には問題のない年になってからは、何度か居酒屋に入ったりもしたけど
三橋は飲まないか、飲んでもビール一杯がせいぜいだった。
何故かと言えば、以前に一度だけ2人で飲んだ時に酔って失敗したからだ。
それ以来、三橋は酒に対してはひどく用心深くなっていた。 

その自戒を忘れたわけではないのだが、あれから何年も経った今となっては
その記憶も薄れている。

「ちょっと遅いけど、新年のお祝いしようぜ?」 という言葉にも心を動かされた。
新年はそれぞれ実家で過ごしたせいで、2人で祝えなかったのだ。
残念な気持ちは三橋だって同じだったから。
お祝い気分はとっくに消えたけど、まだ1月前半だから ありなんじゃないだろうか。
「そう、だね。 お祝いしたい ね」 
とまだ少し躊躇いながらの控え目な承諾に阿部が見せた笑顔で、
残っていた迷いが消えた。 それくらい全開だったのだ。

その後いっしょにつまみを用意するのも楽しかったし、
アルコールも手伝ってか阿部は終始上機嫌で、それが単純に嬉しかった。
加えてその貰い物の品は、酒には不慣れな三橋にも飲みやすく、
阿部も 「美味いなこれ」 としきりに感心してくれて、
ほっこりと幸せな気分のままに杯を重ねたのだ。 
つまりすっかり油断していた、その結果。

(オレ、またやった・・・・・・・・)

頭の痛みだけではなく、腰もだるい。
しかしそれは別にいいのだ。 今日は予定がないし、
そこまでになるのはたまのこととはいえ、慣れた感覚でもある。
「最悪」 なのは体のあれこれではなくて、気持ちのほうだ。
痛む頭に手をやりながら昨夜の自分を思い出して、小さく呻いた。 顔も熱くなる。 

(夢・・・・・・・じゃない、んだ・・・・・・・)

思い出したのはそれこそ、夢でしか見たことがないような自分だ。
全部覚えている。 むしろ以前のように記憶がないほうが幸せだった。
穴があったら入りたいとはこのことだ。
羞恥のあまりぎゅっと目を瞑ると、却って余すところなく蘇って慌てて目を開けた。 
身の置き所がないほどに恥ずかしい。 いっそ逃げ出したい。

もちろん、それはできない。
いっしょに暮らしている今はここが自分の家でもあるのだ。
逃げ出したい相手は今も隣で寝息を立てている。
こっそりと窺って、阿部がまだ起きそうにないことにホッとしたものの
今だけのことだろう。  顔を見るとまたしても思い出す。 
あんな自分はあり得ない。 なかったことにしたい。

往生際悪く打ち消してもあり得たのだ。 
つまり乱れた、のだ。  乱れまくった。
特に最後のほうがひどい。 思い出したくない。
恥ずかしさに耐えられず、くるりと背を向けても記憶は消えない。

(よ、よ、酔ってたんだオレ・・・・・・・)

今さら自覚する。 いや最中にも自覚していた。 それも覚えている。
どうでもいいとその時は思った。 それくらい、夢中だった。 でも。

(何か、言われる だろうな・・・・・・・)

容易に想像がつく。
目覚めた阿部は何と言うだろう。
明らかに普通じゃなかった自分について、何か言われるに違いない。
それはもちろん、意地悪じゃないことくらいはわかっているし
怒ってはいない、むしろ喜んでくれたであろうことも想像がつくけど、
どうであろうと恥ずかしいものは恥ずかしいのだ。
真っ最中に煽られるように恥ずかしい事を言われるのと、
正気も正気の明るい陽の下で言われるのとでは全然違う。

そして阿部はよく、大真面目にそれをやらかすのだ。
赤面して慌てる自分の様子を楽しんでいるフシもある。
ある程度は慣れたとはいえ、今日は勘弁してほしい。
「昨夜はすげー良かった」 などと言われようものなら羞恥のあまり悶死する。
しかし経験上、それが一番言われそうな言葉でもある。

(わ、忘れた振り、しよう かな・・・・・・)

そう思いついて、でも嘘は良くないと迷ったところで。

「三橋」

びくりと肩が揺れてしまった。 せめて心が決まるまで寝た振りをすれば良かった、
と気付いたところで手遅れだ。

「おはよう」

いつもと同じ調子の声におそるおそる顔を向ければ、阿部はごく普通の顔をしていた。
とりあえずホッとしながらも、心臓はばくばくと忙しない。

「お、はよ・・・・・・」

返す声は自然と小さいものになった。
さあこれからだと身構えながら、顔が赤くなってませんようにと祈る。
何も覚えていませんという顔ができていれば、もっといいんだけど。

「頭、痛くねえ?」
「え・・・・・・・」

気遣うような言い方には、揶揄も余計な含みも感じられない。
拍子抜けしてから、聞かれたことで改めて痛みを強く意識したので。

「痛い・・・・・・」
「待ってな」

正直に告げると、阿部は身を起こしてさっさとベッドから出た。
戻ってきた時には薬と水を手にしていて、渡してくれる。
顔を正視できないまま受け取って、それを飲み干した。

「もう少し寝てる? メシ食えそうか?」
「え、あの、食べ る」
「そうか」

嬉しそうに笑ってから阿部はキッチンのほうに消えた。
三橋はぽかんとした。 阿部がおかしい。
三橋の知っている阿部はこういう時に絶対何か言うはずなのに。
忘れた振りをするチャンスすらないのは、阿部がそれらしいことを何も言わないからだ。

(・・・・???)

頭が疑問符一色になったけど、聞くわけにはいかない。
墓穴を掘る結果になるかもしれないからだ。
けれどどうにも落ち着かない。 いっそからかわれたほうがすっきりするのでは。

そんなことまで思いながら朝食の間じゅうびくびくと警戒していた三橋に
阿部は結局恐れていたような言葉は一言も発しなかった。
揶揄も感慨も恥ずかしいことも一切なし。 どころか。

「あーなんかオレ、昨日飲みすぎたかも」
「えっ」

いよいよ来るのか? と覚悟したところで、阿部は苦笑しながら言ったのだ。

「なんか、いろいろとよく覚えてねーんだ実は」
「へ・・・・・・」
「片付けた辺りまでは覚えてるけど」
「あ、そう、なんだ・・・・・・・」
「変なことしてたら、ごめんな?」
「え、ううん、全然、だよ!!」

首を振りながら一気に心が軽くなった。
変だったのは自分のほうだが、余計なことは言わぬが花だ。
では阿部は覚えてないのだ。 忘れたと、嘘をつく必要もなくなったばかりか
あれやこれやは自分の記憶の中だけだ。

(よ、良かった・・・・・・・・・)

思わず安堵のため息が漏れた。 心なしか頭痛も軽くなったようだ。
それくらい嬉しかったのはそれだけ恥ずかしかったからだけど、
心配事が消えた途端に記憶のイメージは一変した。
恥ずかしささえ取り除けば、正直忘れがたいほどの夜だった。
幸福で、熱くて気持ちよくて、夢中になった。 
異常とも思えるくらいに執拗に求めたのに、それ以上に情熱的に応えてくれた。

(幸せだった、なあ・・・・・・・)

目を瞑ってうっとりと反芻してから、目の前にいる阿部に
笑みを見せる余裕もできた。 だから。

「あの酒、ほんとに美味かったな。 きっといいものだな。」
「う、うん!」
「オレも御礼言ってた、て次に会った時にでも言っといてな?」
「うん。 伝える、よ!」
「たまにはああやって飲むのもいいよなあ」
「うん!」

頷いたのも本心だった。 本当に楽しかったからだ。 
飲んで過ごした時間もその後も。
なので爽やかな阿部の笑顔にホッとしながら、心からまた笑ったのだ。





その時の三橋は阿部の性格のある面を忘れていたし
阿部の 「今年の目標」 も知らなかった。
安心のあまり次の機会がもしあった時に気を付けるべきことなど、
自分を戒めることも忘れてしまった。
次の機会は今後しばしばあることも、もちろんこの時の三橋は想像もしなかった。

見落としたそれやこれやを三橋が知るのは大分後のことになるので、
何はともあれ 双方にとって幸福な年の始まりとなったのは間違いない。















                                            朝 了 (NEXT

                                            SS-B面TOPへ






                                                   同じ失敗はしません。 (阿部が)