野球バカの悲哀 (後編)




その日の帰りに阿部が人にも車にも電柱にもぶつからずに
無傷で帰宅できたのは奇跡だった。
なぜなら風景など全く目に入らないくらいの混乱や悩みの坩堝に、
どっぷりと嵌っていたからだ。

三橋がそんな気持ちを抱いていたなんて知らなかった。
もともと三橋は男が好きなんだろうか。
そういう人間もいるのは知っているが、三橋がまさにそれなのか。
それともそうじゃなくて、自分だけが特別なんだろうか。

という事柄が頭の中でくるくると回る。
同じことが何度も回るのは答が出てこないからだ。
三橋の今までを思い出しても特に思い当たる節はなかった。
男にしては華奢で顔立ちが中性的なのは事実だけど、それは関係ない。
それにそんなことはこの際問題じゃない。 問題なのは。

(・・・・・・・なんだろう?)

改めて思うと何もない気がした。
むしろ昨日よりもすっきりしているくらいだ。

(・・・・・・じゃなくて!)

阿部は頭を振った。
問題は、ある。 着替えの時にも考えたとおり一番の問題は野球への支障なのだ。
でもそう考えると、逆に都合がいいのかもしれない。 
彼女ができて練習に差し障りが出るよりも、自分なら野球をまず優先して考えることができる。

(・・・・・・・・待てよ)

そこでハタと気付いた。 自分が応える、という前提で考えていることに。

(待て待てちょっと待て!)

一旦ブレーキをかける。 
実際に漕いでいる自転車じゃなくて頭のほうである。
応える気かオレは!? とはっきり意識すれば
それはどうなんだ、と懸念が湧いた。 何しろバッテリーの相手で、同性である。
なら受け取ってしまったのはまずかったのでは、と思いついたけれど
それはすぐに撤回する。 受け取らなかったら三橋は落ち込んだかもしれず
それは相棒として忍びないし、咄嗟に手が出ていたんだから仕方ない。
そもそもが驚いたのは確かなのに、なんのためらいもなく受け取ったのは何故だろう。

そこに思い至って、その瞬間の気持ちを思い出してみる。
悪い気はしなかった、むしろ。

(・・・・・・・・嬉しかった・・・・・・ような・・・・・・)

いやいやいや、と阿部はまた大急ぎでぶんぶんと頭を振った。
すれ違った通行人がぎょっとしたように阿部を見たのにも気付かずに、
やっきになって否定する。
嬉しかったなんてそんなわけはない。
だって三橋は男だし、大事な相棒だけどそれ以上の気持ちはない、

(・・・・・・・・・はずだ多分)

語尾に変なセリフが付いてしまって、少し慌てた。
訂正する。 多分じゃなくて絶対。

(・・・・・・・かな?)

また曖昧な語尾がくっ付いた。 
いやいや、と阿部はまたしても忙しなく頭を振った。 首が疲れる。
それに自転車を漕いでいる状況では危険でもあるわけだが、その自覚はない。
三橋はよく高速で顔を横に振るけど疲れないんだろうかと
果てしなくどうでもいい疑問が浮かんで、
今はそんなことを追及してる場合じゃねえ! と突っ込んだ。

ちょっと冷静になれオレ、と気を静めてから続きを考えた。
付き合うとなると、と具体的に想像してみる。
つまりそれは友達どうしではしないあれやこれやすることを意味するわけで、
別にしなくてもいいのかもしれないけど普通はするわけであり。

(三橋と・・・・・・?)

ぽんと浮かんだ映像をすぐに削除しようとして失敗した。
5秒ほど思い浮かべてから我に返って何度目かになる首振り運動に勤しんだ。
何で全然抵抗がないんだ、うっかり悪くないとか思ったのは、

(・・・・・・気のせいだな、うん)

気のせい気のせいと尚も2回ほど唱えることで、
最も肝心なところを阿部は無意識にすっ飛ばした。 

とりあえずは明日どうするかを決めることにする。
阿部の頭に 「断る」 と 「OKする」 という2つの選択肢が浮かんだ。
断るのはまずい。
それによって三橋が動揺して投球が乱れたりしたら捕手失格だ。それは却下。

となると残る選択肢は一つしかないわけだが それで解決、とは残念ながらならなかった。
今の今までそんなふうに意識したことのない相手とそんな関係になったら
いろいろと不都合が出てきそうで、不安になった。 
ならばいっそのこと何もなかったことにするのはどうかと
3つ目の選択肢を捻り出したところでふと気付いた。

(そういやお礼も言ってねーじゃん・・・・・・・)

人としてそれはどうなのかと思えば、ダメだろうとすぐに答が弾き出る。
けど明日お礼を言ったら、三橋はいっしょに返事を期待するんじゃないだろうか。
返事のほうは忘れたふりをして有耶無耶にしても、それで三橋が落胆したらどうする。
その前に三橋から聞いてくるかもしれないわけだから、
ちゃんと返事を用意しておいたほうがいい。

そこまで考えてようやく阿部は2番目に肝心なところに辿り付いた。
そもそも自分は付き合いたいのか付き合いたくないのか。

途端に、ただでさえ迷走気味だった思考が完全にループし始めた。
付き合いたいのかと自問しても、もやもやと霧がかかってよく見えない。
そんな半端な気持ちで果たして付き合えるのかと躊躇が湧く一方で、
断るのが嫌なのも確かだった。 
なら付き合いたいのかと考えても、以下エンドレスで
同じところを延々と回るばかりで答に行き着けない。
野球「だけ」のことならこんなに苦労しないのに、野球バカのツケかこれは。

と苦々しく思っても、こればかりは仕方ないで済ませるわけにはいかない。
だって何しろ三橋のことなのだ。

阿部は真剣に考えた。 それこそ試合中と同じか、それ以上の真剣さで。
けれどいくら考えても考えても、結局結論は出なかった。






○○○○○○

翌日阿部は朝から疲れ果てていた。
昨日寝るまで考え続け、ベッドに入ってからも悶々と悩んで眠れず、
ようやくうとうとしたと思ったら三橋とキスをする夢を見て飛び起きた。
阿部の葛藤などお構いなしに朝は来る。
今日三橋はどういう態度で接してくるのかとあれこれ予想して
身構えながら朝練に赴いた阿部であったが。

「阿部くん、おはよう!」
「・・・・おー、・・・・はよ」

三橋の様子はいたって普通で、拍子抜けした。
ホッとしたのかがっかりしたのかよくわからない。
複雑な気分のまま通常どおり練習を終えて、
お礼を言い忘れたことを思い出したのは授業が始まってからだった。

(放課後に言うか・・・・・・)

でもまだどうするか決めてないのだ。
ただでさえ寝不足なのに今日の授業は全滅する予感に、阿部は長いため息をついた。

そんな阿部の悩みをよそに、その日の学校はなんとはなし浮き立つような空気に満ちていた。
バレンタインデーが日曜だったため、受け渡しの概ねは今日が本番のようだった。
目立たないそこかしこでチョコが飛び交っているのも、しかし阿部には興味がない。
頭を占めているのは三橋と、これからどうするかという事柄のみで、
それ以外はどうでも良かった。 もはや飽和状態を通り越して、
頭をぽんと叩けば三橋の小人が飛び出てきそうな勢いである。

そんなだから昼休みに阿部が9組の前を通り過ぎながら中に目を向けて
三橋を探したのも当然と言えよう。
三橋は教室の中にいた。
姿を認めるや、阿部はぴたりと立ち止まった。
隣を歩いていた花井が怪訝な顔をしたのにも気付かず、あんぐりと口を開けた。
信じられない光景がそこにはあった。

三橋は浜田に何かを渡していた。 その包みには見覚えがあった。
昨日渡されたチョコと全く同じものを三橋は差し出して、
浜田も笑いながら受け取っていた。 会話までは聞き取れない。
まず浮かんだことは。

(男なら誰でもいいのかあいつは・・・・・・!!!!)

だった。 次に怒りがふつふつと湧き上がる。 裏切られた気分だった。
こんなに悩んでいるのに、三橋はほいほいと他の奴にも愛を告白しているとは
一体どういうわけなのか。 
あり得ない、と無意識に拳を握り締めたところで、隣から花井の驚いたような声が聞こえた。

「ど、どうしたんだ阿部?」
「・・・・・・別にどうも」
「別にって、おまえすげー顔してるぞ」
「・・・・・・なんでもねーよ」

花井の顔が疑わしげになった。 どんな顔をしているのか自分ではわからないが、
ロクなもんじゃないだろうとは確信できた。
だってそうだろう!? という叫びを心だけに留めただけでも偉いと思う。
花井は訝しげに阿部の視線の先を辿って、そこで表情を変えると
阿部にとってのさらなる爆弾をこともなげに投下した。

「三橋のチョコ、結構いけたな」
「・・・・・・え」

ぐるりと首を回して花井を凝視すると、その顔が怯えたけれどそんなことはどうでもいい。 
今花井はなんと言った?

「三橋のチョコ?」
「お、おお」
「・・・・・・・食ったのか?!」
「うん、昨日貰ったから」
「・・・・・・・・・・・・。」

なんだこれは一体どういうことなんだ、二股かと思ったら三股かよ
とまた心中で絶叫していると、少し焦ったように花井が言った。

「阿部は貰わなかったのか・・・・?」
「・・・・・・・・貰った」

花井があからさまにホッとしたのは何故だ。
ホッとするどころじゃない阿部はついに花井に食って掛かった。

「おまえは腹立たねーのかよ!?」
「はあ?」
「あいつ、いっぱいバラまきやがって」
「いっぱい・・・・・?」
「見損なったぜ」
「え・・・・・・・野球部関係だけみたいだけど」

なんだって、と目を剥いた。 信じられなかった。

「野球部全員・・・・?」
「じゃねーかな? でもそんだけだぜきっと」
「充分多いよ!!」
「・・・・・・・・・なんでそんな怒ってんだよおまえ」

花井の困惑顔に怒りのボルテージがさらに上がった。
どうして平然としているのかまるで理解できない。
宇宙人と話しているようだ。 宇宙人は三橋1人でたくさんなのに。

「だって変だろーが!!」
「そうか? ・・・・まあ男では珍しいかもしんねーけど」
「そういう問題じゃねーだろ?!」
「おまえさ、友チョコ貰って何で怒るんだよ・・・・・」

上がる一方だった諸々がぴたりと止まった。
知らない単語が出てきたからだ。 それも流してはいけない類の。

「トモチョコ・・・・・・・?」
「うん」
「トモチョコ・・・・・・・?」
「ってやつだろ? 女子連中がみんなやってんじゃん」
「・・・・・・・・・・・・・・・。」
「三橋の場合はお世話になってます的な感じだけどな」

「トモ」→「友」 という漢字変換が脳内でなされた。
あらゆるものが一気に降下して頭がすうと冷えていくのを阿部はまざまざと感じた。
それこそ氷点下まで。

「友チョコ・・・・・・・」
「うん、・・・・・って知ってるよなもちろん?」

知りませんでしたそんなの。

とは言えなかった。
言える雰囲気じゃなかったからで、これ以上ダメージを食いたくなかった。

「美味かったし、いーじゃん。それともおまえのは不味かったとか?」
「・・・・・・・・・・いや」

全然そんなことはありません。 てかまだ食べてません。

「それに昨日配ってんの、おまえも見てたじゃん」
「・・・・・・・・。」
「あん時いたよな?」

どん時かは想像がついた。 帰りの着替えの時だろう。
一心不乱に考え込んでいたあの時、周囲でそんなことが起こっていたなんて
全く見えてませんでした悪いかよ。

とも何も言えず阿部は静かに、かつ深く脱力した。
黙って頷きながら、正直その場にへたり込みたかった。
バレンタインがいつのまにかそこまで変貌していたとは知らなかった。
いや多岐に渡っていたというべきか。
野球にしか興味がないから、なんてのは言い訳にならないんだろう。
昨日から今日にかけての混乱と葛藤、つい今しがたの激怒は何だったのか。
せめて昨日の時点でわかっていたらここまで悩まずに済んだのに
バカみたいだ、と思ってから 「みたい」 を自分で消去した。 ぐったりと。
花井がそれ以上特に何も言わなかったのが有難かった。

それまでめいっぱい頭を占めていたあれやこれやがすかんと消えうせて、頭が軽くなった。
それは助かったけれど、悩みすぎた反動か脱力しすぎた連動か
その後は空っぽなまま過ごしたせいで、結局授業は全滅だった。
練習だけは空っぽなせいで却って没頭できたのが、せめてもの幸いだった。
「阿部、今日張り切ってんじゃん」 と栄口に感心されて、
やけくそなだけ、とは言わずに曖昧に笑ってみせた。

空っぽ状態は部活の後皆で連れ立って帰るまで続いた。
帰り道で自転車を押して歩きながら、
一同はそれぞれ荷物の奥にしまいこんだチョコの数など思って、
密かに浮かれたり落胆したりしていたわけだが、1人例外な阿部である。
そしてもう1人の例外は田島だった。

「チョコどんくらい貰った?」

楽しそうに聞き回って、最後に一番後ろをのろのろと歩いている阿部のところに来た。

「阿部は?」
「・・・・・・・へ?」
「チョコ貰っただろ?」
「・・・・・・・・あー、うん」

そこで思い出した。
前日の三橋のだけじゃなく、今日もチョコを貰ったような気がする。
何人かの女子に義理ぽいのを。
中には義理じゃないのもあったのかもしれないが、
前半はぐるぐるしていて後半は脱力していて実はよく覚えていない。
貰ったチョコをどうしたっけと考えて。

「・・・・・・・そういや忘れた」
「へ?」
「オレ、教室に忘れてきた・・・・・・」
「マジで?!」

田島の顔がびっくりした。

「すっげーなー阿部」
「・・・・・なんで?」
「普通忘れねーだろ」
「・・・・そうかな」
「そーだよ!」
「・・・・・なんで?」
「えーだって悪いだろ? つかやっぱ嬉しーじゃん、嬉しくね?」
「・・・・・・・・オレは」

阿部は考えた。 嬉しいか?
確かにバレンタインデーは毎年それなりにどきどきしたり貰えれば嬉しかった、
ような気がする。 去年までは。 でも今年のバレンタインは。

がっかりした。

不意打ちのように浮かんだことにどきりとした。
がっかりするのは変だ。 
ホッとしたが正しいはずだし三橋の心遣いは喜ぶべきことだ、もちろん。
たとえ他の連中と同列であろうと。
そもそもそれで悩んでいたはずなのに、がっかりしているのは何故だろう。

という疑問はもうためらうことなく頭の外に蹴り出した。
誤解だったからにはこれ以上何を考えても無駄なだけだ。

とはいえ横にはまだ田島がいて、興味津々で答えを待っている。
なので阿部はもう1つ浮かんだ正直な感想を言ってやった。

「すんげー疲れた」













                                      野球バカの悲哀 了

                                        SSTOPへ





                                            この場合宇宙人は阿部のほう。 (ちょこっとオマケ