野球バカの悲哀 (前編)
           注意: 本筋とは関係ないけど少しだけ本誌のネタバレがあります。





阿部は着替えの手を止めた。
練習を終えて帰り支度の最中、隣で田島が放った一言が引っ掛かったからだ。

「じゃあ今日、うちな!」

横目で窺えば田島の向こう隣でこくこくと忙しなく首を上下させているエースが見えた。
今日の練習は早めに終わったから今から遊ぼうというわけか。
それは別に不思議でも変でもない。 三橋と田島は仲がいい。
しかしいつもなら別段気にも留めないその会話がその時に限り流せなかったのは、
悪性の風邪が流行っていて部員にも注意が出ていたせいかもしれない。

「なに?遊ぶの?」

ぼそりと出た声は思いのほか低くなってしまったけれど
田島は 「お?」 という顔で阿部を見てから悪びれることなく笑顔で頷いた。

「おー、チョコ作んだ!」

は? と阿部は眉をひそめた。
よく理解できずにいると田島は楽しそうに付け加えた。

「バレンタインのさ!」
「・・・・・・・はあ?」

今度は声に出てしまった。
そういえば明日はバレンタインだった、と思い出したはいいが納得したとは言い難い。
普通は女子が贈る側じゃないのか。
それとも最近は事情が変わったのだろうか。

と、浮かんだ疑問を口に出す前に、田島は続けて説明してくれた。

「三橋が作るんだ、 んでオレは手伝い!」

え、 と阿部はしばしフリーズした。
なんで三橋がチョコを作るんだ、女でもあるまいに。
いやいやバレンタイン事情が変わっているのならそれもありなのかもしれないが、
それは何を意味するかというと。

そこまで考えて阿部は眉のみならず顔全体を大きく顰めた。
無意識だったが目聡く気付いた田島が先回りする。

「そんな顔すんなよー阿部、大丈夫だから!」

なにが、と質問する暇はまたなかった。
田島のテンポは三橋とは対照的すぎて、どうしてこの2人は気が合うのか、
と見当違いな疑問まで加わる。

「三橋は結構上手いからさ!」

なにが、と同じことを思ってから気付いた。
三橋は料理が上手いから心配するな、という意味だろう。
それは阿部も知っている。
夏の合宿で意外に思ったり感心したのを忘れるわけがなく、
自分が一番わかっていることを他のヤツに言われたことが少し面白くない。
ちらりと三橋の顔を見ると、阿部の様子を不安そうに窺っているのが丸わかりで
苛立ちが増した。

「・・・・・・ヤケドとかすんなよ」

ごちゃごちゃと渦巻いている不快な諸々を全て呑み込んで、
それだけを三橋にとも田島にともつかずに言うと、
三橋はホッとしたように表情を緩めて小刻みに頷いた。
「オッケ!」 という田島の底抜けに明るい声がやけに癪に障ったのは何故だろう。
着替えの続きに戻りながら 「大体さ」 と内心で文句を垂れる。

(そんなこと心配してんじゃねーよ)

田島は阿部の不機嫌を誤解している。
もちろんゼロではない。 右手に傷でも作ろうものなら
全力でウメボシをかますだろう己を容易に想像できる。
けれど嫌な気分になったのはそのためじゃなく、ならば何かと考えれば。

(三橋のやつ、好きなコいんのかよ・・・・・・)

三橋のくせに、と理不尽なセリフまで湧いて
隣で楽しげに詳しい打ち合わせが始まったのも気に食わなく
猛スピードで片付けを終えるなり、さっさと部室を出た。
勢いよく自転車にまたがって鬱憤を晴らすように強くペダルを踏み込めば
向かい風がびゅうと顔に当たって、冷たさに首を竦めた。
春が近いとはいえ夕方の空気はまだまだ冬のそれで、かっかしていた頭が少し冷えた。
それでいくばくか冷静になって、先刻の自分を振り返ってみる。
よく考えれば別に不機嫌になるようなことじゃないのに
なぜあんなに、それも急速に嫌な気持ちになったのか。

(・・・・・・・?)

よくわからなかった、けれど1つ思いついた。
三橋の炊事能力はともかく、田島はどうなんだろう。
「手伝い」などと言っていたが果たして大丈夫なのか。
天然だわ落ち着きがないわな輩が2人揃うことで、1人なら問題ないことでも
相乗効果で危ないことをやらかしそうだ。

(・・・・・きっとそれだな)

うん、と無理矢理納得した。
それだけじゃないもやもやした何かを感じるのは気のせいだろう。
要はケガさえしなきゃいいんだと、阿部は自分に言い聞かせたのである。





○○○○○○

翌日のバレンタインデーは日曜だったけれど、練習はある。
朝一番で三橋の手を注視して、包帯も絆創膏もないことを確認して
阿部はとりあえずホッとした。
もちろんそれだけで済むはずがなく、念のためとがしりと右手を掴んで持ち上げる。

「ひっ」
「・・・・・・・・・・・・・。」

上がった小さな悲鳴にも気付かずにためつ眇めつ手を検分して、ようやく満足した。 
大丈夫なようだった。

「あ、阿部くん?」
「おお、わり」

手を離した後、まだ聞きたいことがあるのに気が付いた。

(無事に作れたんかな・・・・・・・・)

聞こうとして口を開けてから、思い直してぱくりと閉じた。
作れたと聞けばまた不快になりそうな予感がした。
そして用は終わったとばかりにくるりと背を向けながらふいに悟った。
知りたいのはそんなことじゃない。
その後練習が始まってからもしつこく付き纏うその疑問は。

(誰に渡す気だあいつ・・・・・・・・)

運動部の人間でなければ今日は来てないだろうから、明日か。
どうやって渡すのか相手は誰なのか、突っ込んで問い質したいような
知りたくないような、矛盾だらけの思考が充満したせいで練習に身が入らない。
いっそ明日は三橋にこっそりと張り付いて動向をチェックするか、
とまで浮かんだところでやっとで我に返った。

(アホじゃねーかオレ・・・・・・・)

阿部はうんざりした。 自分にである。
なんでこんなに気になるのか、三橋が野球以外のことで何をしようが
彼女を作ろうが振られようが自分には関係ない。
そう考えることで何とかループから抜けて、後半は練習に没頭することができた。
しかしそれも練習が終わるまでだった。

着替えながらまたしても浮かんだのは三橋のチョコの行方である。
それによく考えれば関係なくはない。
野球に明け暮れている毎日に恋は邪魔だ、などと言う気はないが
実際問題練習に支障が出たら穏やかではいられない。
三橋の練習大好きなところは大変いいし当然とも思うが、
大好きなことが他に増えるのはあまり宜しくない。
ムカムカが消えないのはきっとそのせいだろうから、つまり。

(・・・・・・振られりゃいーんだ)

思ってしまってから流石に自分を恥じた。
相棒の不幸を願うのは人としてどうなのか。
しかし相棒の幸せが野球の不都合に繋がれば、それは三橋本人にとっても
不本意じゃないのか。

等々ここでもぐるぐるの壷に入り込んだせいで帰り支度は遅々として進まず、
いつのまにか部室には阿部と三橋しかいなくなっていた。
それも三橋に声をかけられて気付く始末。

「あの 阿部くん?」
「へ?」
「どうした、の?」
「・・・・・あれ? みんなは?」
「か、帰ったよ」

いつのまに、と少し呆然とした。 周囲の様子なんか何も目に入ってなかった。
どれだけぐるぐると考え込んでいたのか今さら自覚して、苛立ちに拍車がかかった。
目の前にいる元凶が何やら嬉しそうなのも癇に障って
一言文句を言ってやりたい、といよいよ理不尽の塊になったところで
三橋は思いがけないことをした。

「あのこれ、バレンタイン だから」

赤い顔で言いながら小さな包みを差し出したのだ。
見るなり阿部はがちりと硬直した。

しかし固まったのは頭の中だけで、手はスムーズに動いて
気付いた時には受け取っていた。
その後三橋が何か言ってるなあとぼんやり認識はしても耳に入ってこず、
ぼけっと見ているうちにドアを開けて出て行ってしまった。
まず浮かんだのは 「何で先に帰るんだ」 という不満だったが
己の姿を見下ろせばまだ着替えも終わっていなかった。
そういえば 「用事があるから帰る」 と言っていたような気がする。
逃げるように消えた印象があったけど、急いでいたのかもしれない。

でく人形と化したのはそれだけ驚いて混乱していたからだった。
無人になってから人間に戻った阿部は、手の中の包みをまじまじと見つめた。
念のためと包装の一部を取り去って確認しても、中身はもちろんチョコだった。

ということはつまり要するに、と混乱の渦から今頃になって
1つの結論が浮かび出てきた。

(あいつ、オレんことが好きなのか・・・・・!!!)

阿部は愕然とした。











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