その時三橋は内心で慌てた。
阿部が怒っているからだ。



今日自分は忘れ物をした。
いつもなら迷わず阿部に借りにいくところだ。
いつものように行こうとして、ふと最近時折感じる逡巡をまた感じた。

(オレ、 こんなで、・・・・・いいの、かな・・・・・・・)

阿部は優しい、  と三橋は思う。
すぐ怒るし口も悪いけど、そのせいで最初の頃は随分びくついたものだけど
(今でも大差ない気もするが)
本当は親身になって心配してくれたり、力になってくれようとしているのを感じる。
それは中学時代には持てなかったものだった。
自分にとってはとても心地よく、嬉しいものであり、阿部に何かをしてもらえると
三橋はいつも泣きたいくらいに幸せな気持ちになった。
それは優しさに不慣れだった最初の頃だけでなく、
公私ともに長く付き合っている今でも変わることはなかった。

(でも)

三橋は不安になる。
捕手としてではなく、恋人としての阿部はいつまで傍にいてくれるかわからない。
いつか失う日が来る、と思うと 慣れてはいけないという自制の気持ちが湧く。
それを言うと烈火のごとく怒られる、とすでにわかっている三橋は
阿部に対してはひた隠しにしているが、未だに頑なにそう信じている。

(それに)

本当はそれ以上に感じるのは己の不甲斐なさだった。
球を投げる以外では勉強でも日常生活の諸事でも、すべてにおいて人並にできない、と
自覚している三橋はどうしても、阿部に対して申し訳ないような気持ちを捨てることができない。
ましてや阿部は全般的に人より優れている。
そんな阿部に自分が釣り合うはずがなく、いくら本人である阿部が
「三橋がいいんだ」 と主張したところで三橋にしてみれば
なぜ自分なんかが、 という引け目を感じてしまうのはもう理屈ではどうすることもできなかった。

(せめてもっと、しっかりしないと)

三橋はそう思う。
それにそうすることによっていつか来る別れの時に
阿部がいなくても大丈夫なように少しでも自信をつけたい、という気持ちもどこかにあった。
だから三橋はその日阿部に頼るのを控えたのだ。
今日と限らず最近そうすることが以前より増えた。

しかし結果的にそれが阿部を不機嫌にさせている。
三橋は混乱した頭でおろおろと考えた。
謝って、次からは借りに行く、と言えばそれで済むのだと。

けれど三橋は そうしたくない、と強く思った。
自分はもっと阿部に相応しい人間になりたいのだ。
阿部の優しさにのうのうと甘んじて良しとしたくないのだ。
何とかしてそれを伝えたいと思い、でも何と言っていいのかわからない。
言葉を探しあぐねている間にも、阿部の眉間のシワはどんどん深くなっていく。
結局上手い言葉を思いつかないままに口を開いた。

「オ、オレ、・・・・・・ちゃんと、 したい、 から」

言いながら ああ、これではダメだ と思った。
これでは全然伝わらない。
もっと怒らせるだけかもしれない、 という恐れがよぎった。

しかし三橋の予想は半分外れた。
阿部の怒りは大きくはならなかった。
一瞬目を見開いた阿部は、何も言わずに難しい顔になった。
つい先刻までのわかりやすい怒りのオーラがふいに薄くなったように、三橋は感じた。
けれどだからといって険のある空気が一掃されたわけでもなく
阿部がむっつりと黙り込んでしまったせいで、2人きりの部室の中には気まずい沈黙が落ちた。

三橋は阿部の心情がわからなくてまた混乱した。
自分の言葉の意味が伝わったとは思えないのに、阿部は聞き返してこようとしない。
かといって笑ってもくれない。
むしろ苦しそうに見える。
あるいはワケのわからないことを言ったせいで腹を立てているのかもしれない、と
三橋はさらに慌てながら推測した。
もっと悪いのは 何か、気に障ることを言ったのかもしれない。

三橋は泣きたくなった。
阿部を怒らせたいわけでは決してないのだ。
どうして上手く言えないんだろうと、 三橋は自分を疎ましく感じる。
日常くらいは阿部に頼らなくてもいい自分になりたいのに。
さらに言えば自分ばかりが阿部に助けてもらうのではなくて、同じように返したいのだ。
そのためにまずは自分の失敗のことで助けを求めるのはやめようと、
せめてそこから始めようと思っているだけなのに。
何とかしてそれをわかってほしい。

三橋は必死で考えて、そして次に思いついた言葉を口に出した。
それは三橋にしてみれば 「図々しい」 と思えるような言葉だったけど。
でも阿部の苦しそうな表情が自分のせいだと思うと、理由がわからないなりに悲しくて
何としても伝えたい一心だった。


「オレ、阿部くんに、  釣り合う人間に  なりたい、 んだ」


その瞬間

はっきりと、  阿部の顔が歪んだ。

ほんの一瞬でそれは消えたけれど。


三橋はいっそう混乱した。
阿部の表情は晴れなかった。
どころか直後に僅かに俯き加減になって固く目を閉じてしまった。
眉間のシワがますます深くなった。

またまずいことを言ったんだ、   と三橋は悟った。

(図々しい、 と思われたのかな・・・・・・・・)

まずそれを恐れてから三橋はそれでも (それは違う) と打ち消した。
阿部はそんな人間じゃない。
そんなふうに思うことは阿部を侮辱することだと、回らない頭で考えた。

(でもじゃあ何で)

今 三橋の目に映る阿部はさっきよりもっと苦しそうに見える。
その顔に怒りはもう微塵も感じない。
三橋はわけがわからない。
何が阿部の気に障ったのか皆目見当がつかない。
しっかりしろ、  とはいつも阿部にも言われることなのに。

せめて何か言ってくれれば、罵倒でもいいから、
と願っても阿部はまるで何かに耐えているかのように、目を閉じて沈黙したままだ。

三橋はどうすればいいのかわからなくて
ひたすら阿部を見詰めながら途方に暮れていた。















実際その時阿部は耐えていた。

自分の中の片隅に常にある、傲慢な望みが崩れていくのを感じながら
それに伴って押し寄せてくる不安の波に押し潰されまいと。



そうしながら阿部は思い知る。



この関係を続けたいと願うなら。

己こそ成長しなければならない  ということを。




たとえそれがどんなに痛みを伴うものであろうとも。

















                                                  成長痛 了

                                                  SSTOPへ






                                                            オマケ