理屈じゃないこと - 15





(目ん玉零れ落ちるんじゃねーの?)

アホなことを思った。
その、見慣れたでかい目をまじまじと見つめた。
体が動かない。 
2人して睨み合いながらお互いに固まっていた。
頭も上手く動かない。  何も考えられない。  けど隣から声が聞こえた。
焦っているような声が告げた内容は、白い頭にそれでもクリアに響いた。

「あの、ごめんなさいちゃんと言わなくて」
「・・・・・・・・・。」
「てっきり三橋くんから聞いてるのかと」

聞いたは聞いた。
でもオレが聞いたことと山田さんの言ったことは違う。
わけがわからなくてこっちこそ聞きたくて、でも見るのに忙しい。
目を逸らすとダメな気がする。 他に注意を向けたら多分あいつは。

(逃げる・・・・・・・・・)

直感だった。 三橋の目、だけを凝視しながら黙っていると、彼女は続けた。

「アタシ、水谷くんと、春からお付き合い」

そこまでしか聞けなかった。 視界の中の三橋が動いたからだ。
くるりと踵を返して、オレとは反対方向に向かってダッシュするのを認めるや、
間髪置かずオレも地面を蹴っていた。

「あ、阿部くん?!」

驚いたような山田さんの声はもうすでに後方に遠ざかってた、
てくらいオレの反応は早かったはずだけど。

三橋のがオレより足が速い。
これ以上ないくらい必死になった三橋に追いつくのは至難のワザかもしれない。
でも今日は見えている。  いつかの公園の時とは違う。
今度こそ、絶対に。

(捕まえる・・・・・・・!!)

捕まえて、そして聞きたい。
水谷の彼女がなぜ三橋の部屋に行ったのか。 なぜ嘘なんかついたのか。 それから。


三橋の好きな相手というのは一体誰なのか。


三橋は逃げていく。 
広い通路を真っ直ぐに走って正面にある建物に駆け込んだので、
そのまま追って入ったら中は学食だった。 人の群れに紛れられたかと一瞬焦った。
でもすぐに見つけた。 1人だけ走っているせいで目立つからだ。
障害物 (つまり人間) が増えた中を三橋は相当の勢いで走り抜けていく。 
もちろんオレも走る。   見失ったらおしまいだ。
ぶつかりそうになったヤツの舌打ちが聞こえても、謝る余裕もない。
反対側の出口から走り出たのを見逃さずに追いかけた。

障害物がなくなるや全力で走った。
それなのに差が縮まらない。  相変わらず15メートルくらいなのに、
その15メートルが少しも縮まらない。
オレは掛け値なしに全速力だから、三橋もだってことだ。  本気で逃げてる。

学食を出た三橋は他の棟のあるほうに走っていった。
走りながら後ろを振り返ってオレを認めるや、さらに足を速めたのがわかった。
情けないことに、差が広がった。  オレも気力でもって速度を上げる。
とにかく背中を見失ったらダメだと念じながら走り続ける。


三橋が次にまた別の棟に入り込んだせいで、
今度は廊下と階段をさんざん走る羽目になった。
他校のゼミ棟の中までは追ってこないだろうと踏んだのかもしれないけど、
あいにく今のオレにはこれっぽちの逡巡にもならなかった。
三橋はまたちらりと振り向いてから、ぎょっとしたように目を見開いた。
そして廊下を疾走し、階段を駆け上がってまた廊下を走り抜けて
再び階段をすごい勢いで駆け下りた。 
時折すれ違う (あるいは追い抜く) 学生の不審気な顔もものともせず三橋は走る。 オレも走る。

ようやくそこを出て、また別の建物に入るかと思いきや、
今度は走りやすい道だけを延々と逃げていく。
呆れるくらいの諦めの悪さだ。
もっともそれを一心不乱に追い続けるオレもご同類だ。
棟の角を曲がる度に見失いやしないかと焦って、力を振り絞って速度を上げる。
自分も曲がって見ると、三橋の背中は少しも近くなっていない。
それだけあいつも必死、てことだ。

走るのに慣れているオレでも、短距離ではない全力疾走だ。 全力以上だ。
心臓が悲鳴を上げている。 目もちかちかする。
それでも足を緩める気は毛頭ない。 気力の勝負だ。

走っても走っても近付かない背中だけを一心に睨みながら

ふいに、奇妙な感覚に囚われた。

三橋とのこれくらいの距離は馴染んだものだ。

18.44M。

マウンドの三橋とオレとの間の距離。 
もちろんそれは物理的なもので、球を受けている時の心の距離は
日常のそれよりむしろ近いような感覚があった。

それ以外の時も、他の誰よりも近い位置にいたことが多かったのは間違いないけど。
高校時代、オレは三橋のことばかり考えながら
どこかで無意識に恐れていたのかもしれない。
必要以上に距離を詰めたくなかったのかもしれない。
野球以外の雑念を、他でもないオレがもたらすのが怖かったのかもしれない。

バッテリーだったから。

(・・・・・・・もし、 もしも、)

三橋の好きな相手がオレだとしたら。
三橋はどんな気持ちだったんだろう。

3年の初めからの短くはない期間、常にそばにいて何だかんだと拘わっていたオレを
毎日どんな思いで見ていたんだろう。
クラスメートの恋愛事を冷ややかに眺めていたオレは
三橋の目にはどう映っていたんだろう。  どんな思いで接していたんだろう。
それは残酷な時間じゃなかったのか。
楽しいとか、幸せとかからは程遠い日々だったんじゃないのか。

突然、あれこれと渦巻いていた幾つかの質問事項がどうでも良くなった。

本当に理不尽だと、思う。
こうすれば、とかこうすべき、とかの冷静な判断がばかばかしくなる。
それを遥かに凌駕する感情に翻弄される。
恋ってやつはやっかい極まりなくて、性に合わない。
こんなに好きなのに、 と幾ら切望しても片方の気持ちだけじゃどうにもならない。
どんなに欲しくても人の心だけはどうすることもできない。
このやるせなさはもう 「絶望」 と表現してもいいと思う。 

好きだと自覚してからこっち、大して長くもない時間の中で感じた
葛藤だの焦りだの絶望だの希望だの、それらをもっとずっと長い時間三橋は抱えながら、
表面には出さずに押し殺し続けてきた。
決して簡単なことじゃなかったはずだ。
一体どれだけの精神力を遣ったんだろう。

ぞっとした。   オレにはできない。

もし三橋の相手が仮にオレじゃないとしても、
相棒のオレに相談すらできずに隠していた感情は、どれだけのものだったんだろう。
それを許さない雰囲気がオレにはあったんじゃないか。
三橋はどこかでそれを感じ取っていたんじゃないのか。


ごめんな、  といくら言っても足りない気がした。


それを思えば、今逃げられることなんて何でもない。
心臓が破裂しない限り追いかけてやる。
何が何でも捕まえる。 

それで言いたいことがある。 どんな結果になろうとも。
振られたところで諦めもつかないだろうけど。

(振られても、いいんだ・・・・・・・・)

ただ、伝えてやりたい。  伝わりますように。

そう、 思った。






三橋はおそらく、焦ったせいで冷静な判断ができなくなったんだろう。
あるいは、あいつだっていい加減へばっていたろうから、半分は諦めたのかもしれない。
鬼気迫る鬼ごっこは結局、構内の一番奥の隅のほう、
部室棟と思しき、きれいとは言い難い長屋みたいな建物が数棟並んだ場所にまで及んで
ようやく決着が付いた。   なぜなら先がない、袋小路にぶち当たったからだ。

迷うように三橋が足を緩めたチャンスをオレが逃すはずもなかった。
伸ばした手がようやっとで届いて、腕をがっちりと捉えた時、
抵抗らしいものはほとんどなかった。
無意識に左腕を掴んだことに気付いて、苦笑が漏れた。

荒い息をつくオレに負けず劣らず忙しない呼吸を繰り返しながら三橋は
オレの顔を見ようとしない。
しばらく2人して無言だった。
お互い、とても話せるような状態じゃない。
はあはあと荒い息だけが人気のない空間に響いた。
酸素を取り込みながらも、掴んだ手を緩めずに親のカタキみたいな勢いで握り締めていて。

「・・・いた・・・・・・・・・」

演技ではない苦痛の声に慌てて緩めながらも、離してやる気はさらさらない。
言葉を発したのは三橋が先だった。

「・・・・・・・・はな、 して」
「イヤだ」

即答したら、三橋の顔が歪んだ。
この顔は知っている。  見慣れた顔だ。 
条件反射のように想像してしまった次の顔を、でも三橋はしなかった。
顔を背けたままの再度の抗議の声は三橋にしては強かった。

「・・・・・・離せ!!」
「イヤだ」

唇を噛み締めた顔を見る。  捕まえた、 と思う。  今だけでも。 
どんな結果になっても、一生忘れない瞬間になるだろうとその時悟った。
オレは手に力を込めた。

「言いたいことがあっから」

僅かに揺れた三橋の腕の感触を記憶に刻ませたいと願う。
何度も触れた腕だけど。
初めて触ったように感じた。
最後になるかもしれない。  写真みたいに、感触も残しておければいいのに。

「それ言ったら離す」
「・・・・・・・・・・・。」

目を逸らしたまま何も言わない三橋の顔をまっすぐに見た。
何の感情もないように見える目。  最近何度か見た目。  きれいで、そして強い。
もしかして最近だけでなく、高校時代にもしていたのかもしれない目。

気付いてやれなかった。

ごめんな、  と思う。
許してもらおうとも思わないし、たとえ玉砕する結果になろうとも。


「おまえが、好きだ」


ガラスみたいなきれいな目がゆっくりと動いて、オレを映した。
ゆらゆらとそれが揺れた。
三橋が顔を小さく振っているんだと、一拍遅れて気付いた。
震えた口が何かつぶやいた。
それは小さ過ぎて聞こえなかったけど、唇の動きで何て言ったのかわかった。

「嘘じゃねーよ」
「・・・・・・・・・・・・・。」
「好きなんだ。  おまえが」
「・・・・・・・・・・・・・。」
「おまえが誰を好きでもオレは」

みるみる三橋の顔が変わって、さっきと同じ、見慣れたものになった。
今度は予想は外れることなく、瞳にきらきらした透明な滴が盛り上がって。

落ちる前に俯いてしまったせいで目に映った、
これも見慣れた褐色の髪とつむじを 泣きたいくらいの懐かしい気持ちで見つめた。
















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