日常の落とし穴 (前編)(A)





ぎしぎしと音がしそうだ、 と阿部は思った。  
何がというと、自分の体である。

腕とか指とか口までもが強張って、自分のものじゃないみたいだ。
毎日している当たり前の動作がこんなに困難に感じるなんて、
と舌打ちしたいくらいの忌々しさを感じてももちろん実際にはしない。 
できる状況じゃない。
かといって一連の動作を止めることもできない。

(何だってこんなことに・・・・・・・)

阿部は心底困り果てながらも必死で平静を装って、食事を続ける。 
味がほとんどしないのは、耳のほうに神経が集中しているせいか。
人間の体って精神に直結してるんだなあ、 などと
身をもって1つ学習したところで事態が変わるわけもなく、
味のしないサラダをもそもそと咀嚼して機械的に飲み込んだ。

心づくしの料理なのにすみません、と殊勝な後ろめたさが湧く一方で
そもそもこの状況は主にこの食事を作ってくれた人物、
三橋の母親によるところが大きいと恨めしい気分にもなる。
もちろんそんな恨み言は己の勝手な都合だと、重々わかってはいるけれど。

三橋家の広いリビングで阿部は夕食をご馳走になっている。
今日三橋の家に来たのは、次の練習試合の対策だの傾向だのを教えるためだった。
提案したのは阿部で、純粋な目的以外にももっと親密になりたい密かな思惑が
あったわけだけど、この状況は母親に引き止められたからで、想定外だった。 

とはいえ、もちろん悪い気はしない。
以前と比べて格段に近くなれたようで素直に嬉しい。
好きな相手の家で、という状況に緊張もするものの
以前にもあったから初めてというわけではない。
その時は試験の勉強を見るために来て、やはり引き止められて食べていくことになった。
そしてその時はここまで気まずいことにはならなかった。
三橋は元々の口下手に旺盛な食欲も手伝って、ほとんど話をしなかったけど
その分母親が愛想よく世間話などもしてくれたので、場がもたないということもなかった。

しかし今現在精神的苦痛のあまり体の動きにまで変調をきたしているのは
場がもつとかもたないとか以前の問題で、感じている苦痛も気まずいを超えて 
いたたまれない、というレベルである。
何となれば、イヤでも耳に入ってくる会話のせいだ。

「好きなのよ」
「・・・・・・・・・ごめん」
「どうしてもダメなの・・・?」
「・・・・・・・・・あいつが好きなんだ」
「どうして? だってあの人男じゃない!!」
「・・・・・・・ごめん」
「そういう性癖ってわけじゃないんでしょ?」
「・・・・・・・・・・・・。」
「きっと一時の気の迷いよ」
「・・・・・・・・・・・・。」
「私、待ってるから」
「・・・・・・無駄だと、思う」
「でも彼はあなたの気持ち、知らないんでしょ? 友達だと思ってるんでしょ?」


勘弁してくれえええ

と阿部は心で絶叫した。 実際に叫べたらどんなに楽だろう。
願わくばテレビを消したい。
三橋の母親は食卓についているわけではなく少し離れたところで見ていて、
音量も抑えてあるとはいえ、同じ部屋にいる以上どうしたって聞こえてしまう。
目を逸らすことはできても耳を閉じることはできない。
犬じゃあるまいし塞ぐとしたら手を使わなければならず、
そんな露骨なことはできるわけがない。

これが自分の家だったら有無をも言わさずぶっちぎるのに、と阿部は苦々しく考えた。
しかし他人様の家で、かつ親のいる場でそれをするほどの度胸もなければ非常識でもない。
三橋に縋りたくても、この状況がいたたまれないのは自分だけである以上それもできない。

またしても理不尽な恨めしさが、今度は三橋に対して湧いた。
彼は今どんな顔をしているのか、 と阿部は皿を睨みながら思い、
その様子が容易に想像できた。
三橋は我関せずとばかりに食欲を満たすのに忙しいに決まってる。
むしろそのほうが有り難い。

それを確認するために阿部はぎしぎしと動きの悪い関節を動かして
向かいの位置に座っている三橋を見やった。
そして少し驚いた。
想像した姿はそこにはなく、意外にも皿の上には半分以上おかずが残っている。
それもそのはず、明らかにいつもの食べっぷりではない。

ということは三橋も母親と同じで、そのドラマが好きで
テレビに気を取られているのかと思えばそれも違うようだ。 全然見てない。
一応食べることに専念しているように見えるが動作がのろく、
目にどこか落ち着きがないうえに常よりも顔が赤い。
そもそも男子高校生向きのドラマでもないから、テレビのせいとは思えない。 となると。

(もしかして具合でも悪いのか?!)

俄かに捕手根性が顔を出したけれど、直後に阿部は否定した。
今日1日の朝からの全ての行動に不審な点はなかった。
肉体的にも精神的にも何らかの異変があれば、たちどころに気付く自信がある。
もとい、精神的なほうは実はあまり自信はない、けど今日は普通だったと思う。
ならどうして、と首を捻ったところで。

「でも私だって好きなのよ!」

切羽詰ったような女優の叫びと同時に、三橋の顔の朱が濃くなった。
つまり、興味はないけどさっきから延々と続いている男女の愁嘆場に
気まずい気分でいるのかもしれない。
気まずさの種類と度合は自分とは違うだろうが、その可能性は充分ある。
それならば、消してもらってほしいのだが。

(でもまあ無理か・・・・・)

熱心に見ている三橋の母親を横目で窺って、阿部はこっそりため息をついた。
自宅なら消せるなんてよく考えれば嘘だ。
相手が弟に限りそれもできるが、親の楽しみにしている番組を
己の都合で消すなど、そんな恐ろしいことができる家庭ではない。
子どもが王様のような家もあるのだろうけど、自分の家には当てはまらないし
三橋の場合はそれ以前に性格的にダメだろう。
たとえ三橋が同じ心境でいるとしても、それを望んだところで無駄だ。
逃げ道はどこにもなく、せめてこの際どい会話が炸裂するシーンが
一刻も早く終わることを願うしかない。

諦めて阿部は食べる手を速めた。
とにかく食べ終えて、失礼にならないように席を離れる以外に方法はないと踏んだからだ。
やみくもに口に放り込んで咀嚼しながら
またしても耳に入るのは冷や汗の出るようなセリフである。
けれど阿部は今度は開き直って心でコメントし始めた。 もはややけくそだ。

「キミの気持ちには応えられない」

(そうだよな、わかるよ。)

「オレだって悩んだんだ・・・・・・!」

(オレも悩んだ。)

「行き過ぎた友情かもしれないとも思ったし」

(オレもそう思った。)

「でも違うんだ。 あいつでないとダメなんだ・・・・!」

そうなんだよなあ。

「えっ」 

驚いたようなその声が流れに合わない、と違和感を覚えてから気付いた。 
今の 「え」 はテレビの声じゃない。
顔を上げると三橋が自分を見ていた。 目がいつもより大きくなってる。
つまりびっくりしているということだ。 何故だろう。

と怪訝に思ってから阿部は あっ と出そうになった声を呑み込んだ。
声の代わりにぶわっと汗が噴き出した。
最後につぶやいた 「そうなんだよなあ」 は。

(オレ、声に出してた・・・・・・・?!!)

万事休す、 という言葉が脳裏をよぎった。















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