日常の落とし穴 (後編)(M)





三橋は死にそうな気分だった。

母親が阿部を引き止めて夕食を食べていくことになった時は、単純に嬉しかった。
その時間にたまたま、母親が毎週見ているドラマがあることも
知ってはいたけど深く考えていなかった。
なぜなら三橋はちゃんと見ていなかったから、内容までは知らなかったのだ。
こんな話だとわかっていたら。

と恨めしく思ったものの、仮に知っていてもどうにもならなかった。
阿部に 「帰って」 などと言えないし言いたくもないし
かといって母親に 「見ないで」 と頼むこともできない。 結果は同じだったろう。 

いつもは楽しい夕ご飯がこんなに苦しいなんて、と三橋は悲しくなる。
だからといってどうすることもできない。
身の置き所がないとはこのことだ。
好きなおかずだし、それに阿部がいるのに
嬉しいとか美味しいなどの通常あるべき感情はどこにもなくて
「どうしよう」 という困惑だけが体中に充満している。
ついさっきまでぐうぐうと鳴っていたはずの腹にも別の何かが詰まっているようで、
食が進まないだけでなく味もよくわからない。

(な、何でよりによって、こんな設定・・・・・・・)

顔が赤くなってるんじゃないかという恐れも湧いて隠したいと思っても、
食べながらではそれもままならず、
せめて俯き加減で手と口を動かすことしかできない。
要らぬ緊張のせいでそれすらスムーズにいかず、
何か話すどころか阿部の顔を見ることすら不可能だ。
突然停電が起きてテレビが消えてくれればいいのに。

起こりそうにないことを願いながらもそもそと食べている三橋の耳に
否も応もなく身につまされるセリフが入ってくる。
内心でつい呼応してしまうのは、我が身と比べてしまうからだ。

「キミの気持ちには応えられない」

(やっぱり、そうなるよね・・・・・・・)

「オレだって悩んだんだ・・・・・・!」

(オレはすぐに、諦めた かも)

「行き過ぎた友情かもしれないとも思ったし」

(オレは、阿部くんがキャッチャーだからかなって思った。)

「でも違うんだ。 あいつでないとダメなんだ・・・・!」
「そうなんだよなあ。」

「えっ」 

驚いて、三橋は思わず顔を上げてしまった。
だって最後のセリフはテレビじゃなかった。
それまで見ないように努めてきた、声の主を見た。

阿部は普通に食べているように見えた。
が、次の瞬間ぴたりと手が止まり、視線が上がった。 
ばちっと音がするかと思ったくらいの勢いで目が合った。
阿部の目は心持ち見開かれていて、直後に不自然に引き攣った。
しかし僅かな変化だったので定かではない。 目の錯覚かもしれない。
それよりも気になるのは今のつぶやきだ。
三橋の頭にぐるぐると高速で様々な疑問が駆け巡った。

今の言葉はテレビのセリフに言ったんだろうか。
そうとしか思えない。 ということはつまり。

(阿部くん、実は好きなコがいるんじゃ・・・・・・・)

すうっと辺りが暗くなるような錯覚を覚えた。 音もよく聞こえなくなった。
ドラマと同じなら相手は男ということになるけど
それはあり得ないから、共感したのは最後のセリフだけなのだろう。

(でも、彼女作らない・・・て)

以前に言われた言葉に縋ろうとしてハタと気付いた。
その時阿部は好きな人がいないと言ったわけじゃない。
誰かを好きな可能性は充分ある。

なのに作らないと言ったのは、すでに振られたのかもしれない。
あるいは最初から叶わない相手なのか。
それともあの時思った 「自分のせい」 というのが実は真実で
阿部は自分を気遣って、嘘を言ってくれたのかもしれない。
それともあの後に恋をして、事情が変わった可能性もある。

等々が一気に駆け巡ったせいで、容量をオーバーした。
あり得ることが多すぎるうえに恐ろしい内容ばかりで、却って頭がぼんやりした。
もういたたまれないどころの騒ぎじゃなく、暗い穴の底に突き落とされたようだ。
ぼうっと阿部の顔を見つめながら何を言えばいいかもわからず、
とにかく早く食べ終わってしまおうと
かろうじて言い聞かせたところで阿部が口を開いた。 

「あ、あのさ 三橋」

まるで自分みたいにつっかえた、だけでなくその後がなかなか出てこない。
その後俯いてしまった姿を三橋はまだ放心しながら見つめていた。
阿部の様子がどこか変だ、とはわかるものの
ショックが大きくて頭がちゃんと回らない。
けれどやがて顔を上げた阿部は、いつもどおりの彼だった。

「えっと、何でそんな変な顔してんの?」
「え・・・・・・・」

どんな顔、と確認することもできない。
ロクな顔をしていない という自信だけはある。

(何でって・・・・・・・)

三橋は途方に暮れた。 正直に言えば 「失恋したから」 になるのだろうか。

心の中で言葉にした途端に実感が湧いて、お馴染みの感覚に襲われた。
鼻の奥がつんとする。
慌ててぎゅっと喉に力を入れて耐えながら、何て答えようと心底困った。
しかしそれが決まる前に阿部は続けて言った。

「オレ、ちょっと考え事に夢中になっててさ」
「え・・・・・・・」
「今変な独り言言った? もしかして」

ぽん! と有名な小説を思い出した。
穴の底に細い蜘蛛の糸がするすると下りてきた。
三橋はそれに必死で縋った。

「阿部くん、 テ、テレビ 見てたんじゃ・・・・・・」
「見てねーよ」

蜘蛛の糸が麻縄くらいになった。

「独り言、言ったけど あの、・・・・テレビ のセリフ に言ったのかと」
「違うよ。 オレ、聞いてもいなかったから」

すうっと縄が上がっていく心地がした。

「・・・・・そう なの?」
「次の試合のことでちょっと考え込んでてさ、不気味だったよな。 ごめんな?」

すぽんと暗闇から脱出した。
頭上の電気までがさっきより明るくなったようで、知らず顔がへらっと崩れた。

(よ、良かった・・・・・・・・)

気が緩むと光だけでなく、音も復活してテレビの声がまた耳に入った。
次のシーンに移ったようで、もういたたまれない内容ではなかった。 
こっそりと、息を吐いた。
ごく普通の顔で続きを食べ始めた阿部を見てもっと安心して
三橋はようやく味わって食べることができた。

とはいえドラマの設定が変わったわけではないから、完全に緊張を解くことはできず
ドキドキしながら残りを平らげて2人揃って 「ご馳走さま」 と手を合わせた時、
三橋は心からホッとした。
その後帰る阿部を門まで送ろうとして止められた時に素直に頷いたのも、
まだドキドキしていたからだ。

「ここでいいから」
「え、うん」
「風呂入ってすぐ寝ろよ。 夜更かしすんなよ」
「うん」
「じゃな」
「ま、また明日」

手を振って見送り、阿部がドアの向こうに消えた途端に糸が切れて
へなへなとその場に座り込んでしまった。

(つ、疲れた・・・・・・・・・)

どっと疲労を覚えた。 何が疲れたって食事が疲れた。
あのドラマさえなかったらもっと楽しい時間だったのに。
ぐったりしかけてから、ふと気付いた。 阿部が忘れ物をしている。

荷物とは別に持っていた、資料の詰まった紙袋がぽつんと、
玄関に置き去りになっていた。
阿部らしくもない、と驚きながらも急いで掴んで靴を引っ掛けた。
自転車は玄関の近くに止めてあったはずだけど、まだ間に合うかもしれない。

と勢いよくドアを開けた三橋の目に思いがけない光景が飛び込んだ。
期待したとおり、阿部はまだいた。
でも想像したように、自転車に乗ろうとはしていなかった。

阿部はドアから1メートルも離れていない場所で蹲っていた。
まるで先ほどの自分のように。

「あ、阿部くん?!」

ぎょっとしたように阿部が振り向いた。 三橋は焦った。
具合でも悪いんだろうか。 もしかしたら。

「お腹痛い、の?!」
「へ?」
「も、もしかして さっきのご飯の、何かが」
「え、いや」

三橋に負けず劣らず慌てたように阿部は立ち上がった。

「何でもねーよ」
「え、でも・・・・・・」
「・・・・・・や、あの・・・・・」

不自然に目を逸らされた。
また阿部らしくない、 と心配に不安まで加わった。

「ほんとに何でもねーって。 靴の紐結びなおしただけ」
「あ・・・・・な、なんだ」

早とちりだったとわかって、ホッとしながら紙袋を差し出した。

「これ、忘れてる、よ」
「あ、悪い、 サンキュ」
「・・・・・ほんとにお腹が痛いとか、じゃない?」
「ほんとだって! から揚げ美味かったって、おばさんに言っといて」
「え・・・・・・・・」

三橋はきょとんとした。
それを言おうかどうしようかと迷っている間に阿部はきびきびと自転車に跨って
「じゃな、おやすみ」 と言うなりすぐに漕ぎ出した。

「お、おやすみなさい」

慌てて背中に声をかけてから三橋は首を傾げた。
最後の様子を見る限り本当に具合が悪いわけじゃなさそうだけど、
今日の阿部はところどころ彼らしくない言動があった。 主に後半に。

それから居間に戻って、阿部に言われたことを母親に伝えた。
ただし、間違いは修正した。

「お母さん、阿部くんが とんかつ美味しかったって」
「あら、良かったわあ」

母親は笑ってから付け加えた。

「またいつでもご馳走するからって言っといてね?」
「うん・・・・・」

素直に頷いたけれど、三橋は密かに本日の曜日を確認した。
そして、しばらくの間この曜日にはいっしょにご飯を食べてはいけないと
固く心に刻んだのである。














                                     日常の落とし穴 了

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                                                  阿部ったらひどすぎ。