境界線を越えても (前編)





その提案をしたのは 「お金がかかるから」 という単純な理由だった。
仕送りは多分普通よりたくさんしてもらっているほうだけど、
贅沢ができるほどの余裕はない。 阿部くんだってそれは同じはずだ。

でも阿部くんに自分から何かを提案する というのはあまりなかったことなんで、
つまり慣れてなくて
「うちに来ない?」 というたったそれだけを言うのすらどもってしまって
つっかえながらようよう言ってから、ちらと顔を盗み見れば、

阿部くんはなぜか赤面していた。

でもその時は 「何で赤くなってるんだろう」 と不思議に思っただけだった。

「・・・・・・いいけど」

無事に答が返ってきたことへの安堵感をまず感じて、
それが不自然に遅れたことも、説明できないくらいの微かな違和感も
その時は深く考えずに流してしまった。

待ち合わせした駅から真っ直ぐにうちに来て鍵を開けて中に入りながら、
当然続いて入ってくると思った阿部くんがドアのところで立ち止まって
じっとしているのに気付いた時も、まず感じたのは不安だった。

本当は来たくなかったのかもしれない。
いつものように、どこか店とかに入りたかったのかもしれない。
もしそうなら謝らなきゃ。

とおろおろと考えたところで阿部くんが慌てた顔になった。

「今変なこと考えただろ三橋」
「え・・・・・・・」
「そーゆーとこ、変わってねーよな」

入ってきながら笑顔になった、ことにホっとしてオレも笑った。
だからその時点でまだ気付いてなかった。

気付いたのは部屋の中に入ってから、いきなりだった。

(・・・・・・ふ、2人きり、 だ・・・・・・・)

途端に酸素が薄くなった気がした。
もちろんそんなことあるわけなくて、つまり心臓がびょんと1つ飛び跳ねてから
やけに強く打ち出したせいで酸欠気味になったわけで、
あんまりドキドキするもんだから鼓動が阿部くんに聞こえちゃうんじゃないかと余計に焦った。

そこでやっとわかった。
阿部くんの赤面の理由。 それからドアのところで躊躇したわけも。
以前阿部くんが来た時と今とじゃ状況が違う。
あの時は友達だったから、ヨコシマな気持ちはオレだけが持っていた (と思っていた)
けど、今のオレたちは一応世間で言うところの。

(こ こ こ こいび・・・・・・・)

心臓の暴走に加えて顔がかーっと熱くなった。
今さら何で、 なんて心境にはなれない。
だって阿部くんとそういうことになったのはつい10日くらい前で、
オレにとっては青天の霹靂ってくらいの大事件で、未だに上手く実感が湧かない。

奇跡みたいなその日は、夕方からオレのミーティングが入ってて最後は慌しく別れた。
ミーティングでどんな話があったか、まるで覚えてないから出なくても同じだった。
それくらい、夢心地だった。
その時もその後もふわふわと地に足がつかない気分で過ごしていたら
翌日電話があって、誘われていっしょに御飯を食べた。
その次の次の日も会って御飯を食べた。
誘いの電話は1日置きにかかってきて、オレは本当に夢を見ているみたいな
幸せな10日間を過ごして、そして今日だ。
10日間阿部くんとしたのは御飯を食べて、他愛ないあれこれを話した、だけで
今日もそのつもりで、でももうお金がないからうちに来た、わけだけどこれってやっぱり。

(そ、そういう展開に、 なる のか な・・・・・・・・)

なるどころか、もしかすると誘ったことになるんじゃないだろうか。

気付いた途端に顔の火照りが増した。

そんなつもりなかった。

したくないわけじゃない。 本音ではいろいろしたい。
高校時代夢の中で何度も阿部くんに触られたり自分から触ったりもした。 
けどでも、それはあくまでも夢の中の出来事で。

(一体どんな 顔 すれば)

オレは固まったまま動けない。
同じ部屋に阿部くんの存在を痛いほど感じながら振り向けない。 顔を見られたく、ない。
阿部くんも黙っている。  2人して黙っていると沈黙がうるさい。
沈黙がうるさいなんて変だけどホントにそうで、何だかいたたまれない。
どくんどくんと打つ心臓だけが無駄に元気で、息が苦しい。

(で でも・・・・・・)

心臓を宥めるために別の発想をしてみた。
焦っているのはオレ1人かもしれない。
阿部くんの様子が変だったのも何か別の理由で、だからつまりオレの考え過ぎで。
きっとそうに決まってる。  だから何でもない顔してればいいんだ。

(えーと、まずお茶とか・・・・・・)

少し落ち着いて考えたところで、沈黙が破れた。

「三橋」
「へ」

びくりと飛び上がってしまったのは今度は心臓だけでなく、体もだ。
だって阿部くんの声が変だったから。
何がどう変なのかよくわからないけど、変だ。
振り向かなきゃと思っても思うだけで、勇気が出ない。
けど今度はごちゃごちゃ考えているヒマはなかった。  腕を掴まれたからだ。
阿部くんの手が熱くて、眩暈がした。

「何でこっち見ねーの」

やっぱり変だ、 と掠めた時はもう腕を引かれて向きを変えないわけにはいかなかった。
おそるおそる阿部くんの顔を見て。

あ、 と出かかった声を呑み込んだ。
至近距離にいる阿部くんの目は、鈍いオレにでもはっきりわかるくらいいつもと違った。 
声も普通じゃないし。  これはもうどう考えても。

(キ、キス する のかな・・・・・・・・)

どうしよう目を瞑ったほうがいいのか でもそれじゃ誘ってるみたいだし
けど待ってるこの間が恥ずかしい緊張するどんな顔していいのか
いっそ自分からしても別にいいのかもだけどダメだそんなことできるわけない

とかほんの僅かの間にわたわたわたと考えて。

どれでもないことをした。

「あ、あのオレ、お茶淹れる、 から、」

一瞬で、オレを見つめる目の色が変わった。 光が消えた、みたいに見えた。
どきりとした。
でも一度口から出た言葉を引っ込めることはできない。
どうしてそんなことを言ったのか自分でもわからない。  じわっと冷や汗が滲んだ。

「・・・・・・うん、じゃ頼む」

普通の声だった。  腕の熱も離れていった。
目ももう変じゃなくて、いつもの見慣れた阿部くんだった。 オレは。

がっかりした。

(バ、バカみたいだオレ・・・・・・・・)

内心の落胆を隠して必死で何でもない顔をしながら、
玄関脇の小さなキッチンまでぎくしゃくと歩いた。 
心臓はまだドキドキと破裂しそうに打っていた。

やかんを火にかけてから、冷たい飲み物のほうがいいかもと気付いた。
同時に思い出した。 冷蔵庫にアイスコーヒーがある。
少し前にお母さんが来た時に持ってきてくれたのがまだある。
火を止めてから冷蔵庫を開ける。
手を動かしながら忙しなく次にするべきことを考える。 だってそうしていないと。

頭を抱えたくなるからだ。

どうすればいいのかわからない。
どんな顔で阿部くんと話せばいいのかわからない。
今までずーっと気持ちを隠すことに慣れていて。   でも今はもうバレていて。

(・・・・・・・イ、イヤじゃないんだけど)

イヤなわけない。
でも、今さらどんな顔をすればいいんだろう。  それに。
こないだから考えないようにしていてもどうしてもどうしても、浮かんでしまうことがある。
努力して打ち消してもまたすぐに戻ってくるそれ。

(本当に、オレなんかで いい のかな・・・・・・・・)

気持ちを伝える気が全然なかったのは、最初から諦めていたからだけど。
阿部くんに悪い、 という後ろめたさがあったからだ。
付き合うどころか、想っているだけでも罪悪感があったくらいなのに。

友達と恋人の境界線って何だろうと思うと、よくわからない。
でも友達どうしではしないこと、 をしたらもうダメだと思う。
超えてしまったら絶対後戻りなんかできない。 少なくともオレにはできない。
今ならまだ間に合う。
やっぱり気のせいだった、と言われても今ならまだオレはきっと。

「・・・・・・・なにやってんの?」

声をかけられて飛び上がった。 冷蔵庫を開けたままぼけっと考え込んでいた。
でもいつのまにか心臓は戻っていた。

「あ、 ごめ・・・・」
「いいけど。 オレやろうか?」
「え、 あ 阿部くんは、座ってて」
「・・・・・・そう?」

慌てて続きの作業をして、落とさないように気を付けながらグラスをテーブルに運んだ時は、
むしろ沈んだ気分のが勝っていた。

「サンキュ」

阿部くんが笑ってくれたんで、ホっとする。 
2人して黙ってアイスコーヒーを飲んだ。 また沈黙が痛い。

「・・・・・・腹減ったな・・・・・・・・」

つぶやいた阿部くんの声が普通の調子だったんで安心した。
途端に空腹を強く意識した。 胃がぐう、と正直な音を立てた。  阿部くんが噴き出した。

「何か作ろうか?」
「えっ?!」
「なんか材料ある?」
「え、あ、 ある けど」

お母さんが野菜とか肉とかも持ってきてくれて冷蔵庫に入れていったのが、ある。

「あ、阿部くん、作れるの・・・・?」
「炒め物くらいなら」

尊敬の眼差しで見ていると、阿部くんは立ってキッチンのほうに向かった。

「冷蔵庫、見るぜ?」

言いながら冷蔵庫を開けて材料を物色して何やらつぶやきながら、
野菜だの肉だの取り出したかと思うと、さっさと作り始めた。
思わず見惚れてしまったのは包丁さばきが慣れているように見えたからだ。

「す、すごい・・・・・・・・」
「すごかねーよ」
「でも、すごい・・・・・・」
「最初はすんげー笑える失敗したぜ?」
「へ、へえ・・・・・・」
「おまえ、全然作んねーの?」
「・・・・・・トマト切るくらいなら」
「トマトぉ?」
「あ、あと 豆腐 とか」
「そんだけかよ・・・・・・・・・」

呆れたように言いながらも、阿部くんが笑顔なんで嬉しい。
手際よく作ってくれた肉と野菜の炒め物をお皿に移しながら
阿部くんは思い出したように言った。

「そういやさ、メシってあんの?」

あ、 と気付いた。 炊かないとない。
そう言うと 「じゃあパンでいいか」 と言ってまた笑ってくれた。

「すげー合わねーけど」
「う、ううん!」

オレは首を振った。 すごく、嬉しい。
合わなくても何でも阿部くんの作ってくれたものなら無条件で嬉しい。
いそいそとパンとお箸を出して座って、もちろんきちんと 「いただきます」 の挨拶もする。

「お、美味しい!」
「・・・・・・・そうか?」
「うん! 美味しい、よ!」
「・・・・・・・なら良かった」

穏やかな顔の阿部くんと向かい合わせになって、2人して食べる。 
食べながらぽつぽつと話もする。
日常の当たり前のことが、阿部くんとってだけで特別なことになる。
こうしていられるだけで充分幸せだ。

(・・・・・・あれ?)

そこで、気付いた。
どこかで、少しだけ寂しい。 
最初のぎこちない空気は、もうどこにもない。 消したのはオレだ。
こうして御飯を食べながら話していると、
さっきの妙に艶めいた雰囲気がまるで夢だったみたいに思える。
それが寂しくて、でも当然のような気もする。

だって阿部くんと恋人みたいなことをするなんて、上手く実感が湧かない。
想像はできるけど、実際にしたら照れ臭くて笑っちゃうんじゃないか、 なんて思う。 
それにやっぱり。

(本当に、オレなんかで・・・・・・・)

食後のお茶を飲みながらぼんやりと思考が戻ったところで、阿部くんに呼ばれた。

「三橋」
「へ」

何だか改まった声に聞こえて、見ると顔もすごく真面目だった。  真面目というより、

(・・・・・・・緊張、してる・・・・・?)

理由もわからず、どきどきした。
何で阿部くんが緊張しているのか、わからない。
見ているうちに阿部くんはポケットを探って何か取り出した。

「これ、渡しとく」

阿部くんが差し出したのは鍵だった。

「え・・・・・・・」

オレが見入ったまま受け取ろうとしないんで、阿部くんはそれをテーブルの上に静かに置いた。

「オレんちの鍵」
「えっ・・・・・・」

それが阿部くんの部屋の鍵なんじゃ、というのは実は見た瞬間に確信した。 根拠もなく。
なのに、呆然としてしまった。
信じられなかった。
信じられないくらい、嬉しかった、 のに。
手を伸ばして取ることがオレはできない。   だって。

「・・・・・・オレなんか、が持ってて いいの」

口をついて出た言葉に阿部くんの表情が変わった。 

ぎくりとした。

それくらい、険しい顔になった。















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