境界線を越えても (後編)





怒鳴られる、 と首をすくめたところで低い声が聞こえた。

「・・・・・・・どういう意味」
「え、だって」
「・・・・・・・・・。」
「オレ、なんか が」
「いいに決まってんだろ」
「え、  だって」

だって、 しか言えないオレを阿部くんは見ている。 というより睨んでいる。
眉間のシワもさっきより深くなった。

(お、 怒ってる・・・・・・・)

うろたえながらも消えない不安。 しつこく浮かぶことは。

本当にオレなんかが持ってても、いいんだろうか。

ふうっと阿部くんがため息をついた。

「・・・・・・ふーん。 わかった」
「へ・・・・・?」
「オレなんか、 が鍵を渡そうなんて図々しかったな」
「え?!」
「自惚れてたんだなオレ」

焦った、なんてもんじゃない。  パニックになりかけた。
何でそんなことを。

「ち、ち、違・・・・・」
「だって受け取ってくんねーじゃん」
「そ それはだから、 オレなん」

言いかけて、 あっ と気付いた。  そこで初めて、阿部くんが不機嫌なだけでなく、
寂しそうな顔をしているのにも 気が付いた。   言葉を失った。

「・・・・・・わかった?」
「・・・・・・・・。」
「おまえがそうやって卑下すると、オレ 傷つくんだけど」
「・・・・・・・・ごめ」
「でも今思ったんだけどさ!」

うなだれたオレとは対照的に、最後の言葉は妙に元気が良かった。

「つまりオレらって、まだあんまそれっぽくねーんだよな?」
「・・・・・・・・・へ?」

それっぽくって。

「だからさ、恋人っぽくねーっつか」
「へっ」
「だからおまえが自信持てねーのに拍車がかかんだよな?」
「う?」
「つーわけで」

がたん! と音を立てて阿部くんが立ち上がった。
オレは固まったまま、動けない。
ここでこういう展開になるなんて、思ってなかった。
これから何が起きるのかわかるような気がするけど、考えるのが怖い。
けどそんな硬直は長くは続かなかった。

むずっと腕を掴まれて立たされて、ぐいぐいと引っ張られて
突き飛ばされるようにして乱暴に座らされたのはベッドだった。
抵抗なんて全然できないくらいの力だった。

生理的な恐怖でぎゅっと目を瞑ったら、阿部くんが隣に座る気配がした。
そのまま固まっていても何も起きない。 
恐れと緊張に耐えられなくなって、半分だけ目を開けて見たら、
阿部くんは隣でじっとオレの顔を見ていた。  乱暴だった割には静かな目に見えて、
少しホっとしながらもオレはどんな顔をしていいのかわからない。

「目ぇ逸らすなよ」
「う」
「・・・・・・あのさ、三橋」
「は、 はいっ」
「オレはもうおまえのこと、ただの相棒とか友達とは思えねえ」
「・・・・・・・・・・・・・。」
「・・・・て、わかってるよな?」
「う、 うん・・・・・・・・」

頷きながら 本当にオレは わかってるんだろうかと、どこかで思った。
阿部くんの言葉はわかる。
信じたいとも、思う。
思うけど、いいんだろうかという躊躇いが消えない。
だって何度も何度も言い聞かせて、諦め続けてきて。

阿部くんのまっすぐな視線が痛い。
逸らしたいけど、怒られると思うと逸らせない。 いっそ逃げ出したい。
見ているうちに阿部くんの目がふと眇められた。
何だか苦しそう・・・・?  と不思議に思ったのは束の間のことで。

「三橋」
「はっ」
「目ぇ、瞑って?」

今日一番大きく、心臓が跳ねた。 引っくり返りそうな勢いで。
でももう何も考えずに言われたとおりに、した。 
だってそのほうが楽だったから。   阿部くんの視線から逃れたかった。
緊張とか恐れとか照れとか、それから葛藤のせいで、部屋から逃げ出したくなるのを
我慢するのでいっぱいいっぱいだったから、せめて視線からでも逃げられるのは有り難かった。

でもそんなオレの後ろ向きなぐるぐるは、次の瞬間にどこかに飛んでいった。
きれいさっぱりと消滅した。

唇に柔らかい感触がそうっと当たった時。

泣きそうになった。  幸福で。

なのにすぐにそれは、離れてしまった。  途端に思った。  それも強く。

(もっと・・・・・・・・・)

本当にしたら笑っちゃうんじゃないか なんて思い違いだった。 まるで違った。
笑うどころか。

夢を見ているみたい。
だって実際ずっと夢でしか叶わなかったことが現実になって、上手く、信じられない。

もっと、実感したい。 これが本当のことだって。

けどドキドキしながら待っていても何も起きないので。
薄目を開けたら阿部くんの顔がすぐ近くにあった。
気遣わしげな目でオレを見ている、その頬が赤くなっているのが見えて、

ワケもなく安心した。  正直に言えた。

「・・・・もっと、」

して、 までは言えなかった。  すぐに叶えてくれたからだ。
おまけに今度は長かった。   幸せで、眩暈がした。

だから離れてしまった時、 「もっと」 とまた思った。
目を開けたら阿部くんの顔はまだ至近距離にあったから、嬉しくなって。
衝動的に自分から目の前の唇に触れてみた。  何も考えてなかった。
離してすぐに自分のしたことに気付いて、かあっと顔が火照った、のを自覚するかしないかで。

背中に衝撃を感じた。 全然痛くはなかったけど。

ベッドに押し倒されたんだ、とわかった時にはもう口を塞がれていた。
だけでなく柔らかいものが入ってきて。

夢中になった。  圧し掛かってくる熱い体に手を回して背中にしがみついた。
気持ちよくてそれ以上に幸せで、頭の中が白くなっていく。
時折離されても目を瞑ったままで待っていると、またされる。
初めてだから勝手がわからないけど、阿部くんの舌にオレも必死で応える。

体がどんどん熱くなる。
オレだけじゃなく密着している阿部くんの体ももっと熱くなっていく、のがわかる。
熱を帯びた吐息がどっちのものかもわからない。
もっともっと、と望む気持ちが膨れ上がって抑えが効かない。  まるで飢えた子供みたいだ。


こんなにも オレは   欲しかったんだ。
知らなかった。   自分のことなのに。


唇が解放されて、それを寂しく思うヒマもなく熱い舌が首筋に移動した時も
イヤだなんてカケラもなかった。  ぞくぞくと、背中を這い昇る感覚に体が震えた。

「あっ・・・・・・・」

変な声が出てみっともないと掠めながらそれもどうでもよかった。 やめてほしくなかった。
阿部くんが、欲しかった。

だからその直後に、熱を持った重みがふいに離れた時、慌てて目を開けた。
阿部くんはベッドに手をついて、オレを見下ろしていた。
オレと同じくらい息が荒いことにまた、安心したけど。

「・・・・・・ヤバい」
「え」

何で、 と聞きたくて、でも聞けない。

「これ以上はヤバい・・・・・・」

つぶやく声も顰められた眉もひどく苦しそうに見えた。  思わず言った。

「あの、オレ、 い、いいよ・・・・・」
「三橋・・・・・・」

何が、 と聞き返されなかったことにホっとした。
声が掠れていて、色っぽい。
こんな阿部くんは初めて見る。
オレだけじゃない、阿部くんもきっと今、オレを欲しいと思ってくれてる。

でも阿部くんはぎゅっと目を瞑ってから小さく顔を横に振った。

「・・・・やっぱダメだ」
「え」
「今日、はそんなつもりなくて」
「・・・・・・・・・・。」
「てか、つまり全然準備とかしてなくて」

準備。  が要るんだろうか。

「要るんだよ。 幾つか。」

口にはできなかった疑問に答えてくれた。
はあっと大きく息を1つ吐いてから阿部くんは体を起こしてしまった。
オレは起き上がれない。 起き上がりたくない。
そんなオレを見て、阿部くんは困ったように笑った。

「無茶なことしたくねーんだ」
「・・・・・・・・・。」
「・・・・・・そんな顔すんなよ」
「え」

そんな顔ってどんな、 と聞きたくなって、でもわかるような気がした。
ようやくしぶしぶと起き上がったオレを、阿部くんは両腕で優しく抱き締めてくれた。

「でも嬉しい」
「へ・・・・?」
「そうやってもっと貪欲になって」
「・・・・・・・。」
「そんでもっと自信持ってくれ」
「・・・・・・・・。」
「オレ、キスだってこれが初めてなんだぜ?」
「オ、オレ も・・・・・」

阿部くんが腕を緩めてオレを見た。   その顔が、自惚れじゃなく本当に嬉しそうで、
見たこともないような蕩けるような笑顔だったんで。

「と 友達 は、 こんなこと  しない、よね?」
「しねーよ」

オレも笑った。  こんなに幸せでいいんだろうかと、思った。

「・・・・・・あのさ、今度の休みの前の日に、オレんち来いよ」
「う、ん」
「そしたら泊まれるだろ?」
「・・・・・・・・。」
「何時でもいいからさ。 オレがいなかったら合鍵で入ってて?」
「う、うん!!」

続けて耳元で囁かれた言葉に顔が熱くなった。

「それまでに用意しとくから」

何を、というのは聞かなくてもわかった。  きっと 「準備」 のことだ。
嬉しいのと、恥ずかしいのとで火照る顔を隠したくなって、
オレも背中に手を回して肩に顔をうずめた。  息が詰まるくらいの強さで抱き締め返された。

(奇跡、みたいだ・・・・・・・)

まだそう思ってしまう。
だってずっと片想いだった。  長い間気持ちを隠すことに必死で
それが当たり前で慣れ切っていて、これからもずっと続くんだと信じていた。

でも今、この熱さも苦しいくらいの腕の強さもこれ以上ないくらい確かなことで。

(今度、 行く時に)

その時に、オレの部屋の合鍵を持って行こう。
渡したら、喜んでくれるだろうか。
オレは自信を持っていいんだろうか。

「三橋」

名前を囁かれた、だけなのに体が震えた。
何故だかなんてわからない。 
形のない何かが伝わってくる、けどそれが何かもわからない。  けれど思った。

その答はきっと阿部くんがくれる。 


オレの中にある、後ろめたいような気持ちは多分簡単にはなくならない。
今までいつもあったから。
すっかり馴染んで、自分の一部みたいになってたから。
自信がなくなる時だってこれからもあるんだろう。
挫けそうになることもまたある、きっとある、絶対ある、 けど。

きっと何度でも。  繰り返し繰り返し。

阿部くんは答をくれるんだろう。


ふいに涙が滲んだ。
初めて、本当に実感が湧いたような気がした。

(・・・・・・・・もし、 そうなら)

この幸福が当たり前になる日が来るんだろうか。
夢でも奇跡でもなくて、日常になる日が来るんだろうか。

(・・・・・・来ると、いいな・・・・・・・・)


願いながら、確かめるように熱い体を強く、抱き締め返した。
















                                          境界線を越えても 了

                                             SSTOPへ







                                                   そりゃもう、すぐ来る。