後悔先に立たず





その瞬間ヤバいと思った。
オレでなくたって、きっとそう思った。
だってその時阿部の眉が露骨に不快そうに寄せられたからだ。
そしてそれが始まりとなった。












この場を設けたのはオレだ。
女友達に頼み込まれてしぶしぶだった。
渋るオレに彼女は食い下がった。

「何でダメなの?!」
「何でって・・・・・」

正面切って聞かれると返答に困った。
阿部のファンだから一度いっしょに飲んでみたいというその頼みは
よく考えると別にマズいところなんてない。
彼女が下心を持っていたら話は別だけど彼氏持ちだから野次馬根性だけだろうし、
いつかのように阿部が恋人のノロケ話を炸裂させようが
ファンならそれすら楽しいのかもしれない。

嫌な予感みたいなもんはあったものの具体的には何も思いつかず、
何となく気が進まないまま、結局オレは承諾した。
誘うのを水谷に頼んだのは自分で誘うほど親しくないからだ。
バイト先で顔を合わせることは何度かあったけど、
従業員と客の立場だから挨拶程度でプライベートな話までしない。
けど事情を話すと水谷も微妙に浮かない顔になった。

「ファンの女の子ねえ・・・・・」

つぶやいてからうーんと唸った。
女友達が阿部に下心がある、と誤解されたのかもしれない。
ちなみに阿部の同棲相手の正体については、わかった翌日に水谷に言ったら
「時間の問題だと思ってた」 とへらりと笑ったもんだ。

「彼氏いる奴だし、変なことにはならないと思うから」

補足説明すると、水谷はよくわからないことを言った。

「それは心配してないけど」
「なら」
「でもそういう状況だと、心臓に悪いことになるかも」
「・・・・・・・?」

謎のような言葉付きだったけど、最後には快く引き受けてくれて、
仲介者の水谷にも同席してもらっての4人での飲み会と相成ったわけだ。

最初は平和に飲んでいた。 
「恋人」の話も出ず普通に世間話で盛り上がった。
でも彼女は途中から少し酔ってきたんだろう、
おそらく誰もが気付きながら黙っていたことを、唐突に口に出した。

「阿部くん、そこ赤くなってるね」

あ、言っちゃった。

というのが最初に浮かんだことだった。
阿部の首筋にある赤い点は虫刺されかキスマークかどっちか
なんて知りたくもなかったのに。

「ああ、うん」

その時点では阿部は平静な顔で頷いただけだったし、それで終れば問題なかった。
すっと彼女の手が持ち上がったのをぼけっと見ているうちに
それはそのまま躊躇いなく赤い点まで伸びて、そして触った。
その瞬間だ、阿部の形相が変わったのは。
眉が顰められただけでなく目が尖った。
何よりも全身からゆらりと何かが立ち昇った、ように見えた。

阿部の変化に気付いてしまったオレが対応を考えるヒマもなかった。
次の瞬間には パン、と乾いた音がして手が離れた。
阿部が払いのけた、と気付くのに彼女は数秒かかったようだった。
呆けてから、表情が変わるまで間があったからだ。
しんと場が白けて、オレは密かに焦った。

「阿部! ほらそんな顔しない!」

その時水谷が明るく言いながらぽんっと阿部の背中を叩いて、
オレはハラハラしてしまったんだけど
意外なことに阿部は不穏なオーラを引っ込めた。

「あー、悪い。 でもこれ、触んないで」
「え・・・・・・・」

率直に謝った阿部に彼女は虚をつかれたような顔をしてから
にっこりと笑った。 多少引き攣ってはいたけど。

「いいよー、こっちこそごめんね」
「いや・・・・・・」

若干気まずいものの何とか丸く収まりそうで、ホッとしたと同時に水谷に感謝した。
彼にも参加してもらったのはやっぱり正解だった。
でも彼女が笑いながら続けた言葉に内心で冷や汗を掻いた。
女って強いと、常々オレは思う。

「それ付けたの、阿部くんの彼女?」
「うんまあ、そう」
「そうかあ」

あっけらかんと言い放ってからさらに。

「そんなとこに付けるなんて、阿部くんのことがすっごく好きなんだねえ」
「え」

オレはまたひやりとしたんだけど、阿部の反応は今度は真逆だった。
目を見開いてから阿部のほうが突っ込んだ。

「そう思う?」
「思うよお。 自分のだって主張してるわけでしょ?」
「・・・・・・そうかな」
「そうだと思うけど」

ふうん、とつぶやきながら阿部は笑った。 それはそれは嬉しそうに。
ごちそうさま、と思ったのは絶対オレだけじゃないだろう。
その証拠に彼女は本気で感心したような声を出した。

「仲いいんだねー、羨ましいな」
「いいよ、すごく」

うわあ、という彼女の歓声をさらりと流してそこで阿部が中座したんで
ノロケ話に移行するかと身構えていたオレはこっそりと息をついた。
でもそれで終ると思ったオレは甘かった。
トイレかと思った阿部は席に戻るなり水谷に向かって言った。

「もうすぐ三橋来んだけど、構わないよな?」
「えっ」
「授業の後来いって言ってあったんだけど、今店の場所教えてきた」
「そっかー・・・・・・いいんじゃない? な?」
「え、あ、うん」

最後の「な?」はオレに対してだったんで頷きながら、
水谷の様子に何かが引っ掛かった。
今初めて聞いたようなのに、驚いたような感じが薄い。
ミハシって誰だろう。 聞いたことあるような気がするけど思い出せない。
事態がよくわからずにいると、阿部は今度はオレに言った。

「悪いな急で。 確実に来るかわからなかったから」
「や、いいけど」
「駅に着いてたから、すぐ来ると思う」
「ふーん」

水谷が知ってるってことは野球繋がりだろうか
と推測して聞こうかと迷っているうちにもう来た。
現れた奴を見てどっと汗が出るのを自覚した。 
そいつの顔を、オレはよく知っていた。 忘れるわけがない。

「あの、どうも」
「三橋、ここ」

三橋がオレと女友達にぺこりと頭を下げた後、阿部は自分の隣をぽんぽんと叩いた。
雰囲気が変わっているのは絶対気のせいなんかじゃない。
いそいそ、という擬音が聞こえるようでその変わりようたるや
いっそ見事なくらいだ。

「あら、もしかして投手の人・・・・・?」

その時彼女がつぶやいた言葉に驚いた。 三橋を知っているようだった。
でも阿部のファンだったんなら不思議じゃない、というかその前に
投手だったのか! とオレはびっくりした。

「あ、はい。 そうです」
「三橋、ほら」
「あ、ありがと阿部くん」

阿部は、会話には頓着せずに隣に座った三橋の上着を脱がせて
きちんとたたんでから次にお絞りを渡した。
三橋が拭いている間にビールを注いで、その後手早く食べ物を取り分けてやった。
正直唖然とした。 オレの彼女だって、こんなにしてくれない。
女友達も同じことを思ったらしい。 そりゃ思うだろう、誰だって。

「阿部くんてマメだねえ」
「元女房だから」

阿部は実に楽しそうだ。
何となくハラハラしてしまうのはオレだけだろうか。
こっそり水谷を見ると平然と飲んでいて、感心と羨望がごっちゃに湧いた。

でもオレの焦りとか驚きとか懸念をよそに、座はその後盛り上がった。
ほとんどは高校野球の話でオレは聞き役だったけど
この際何事もなく終るのが一番だったから何でも良かった。

盛り上がってるのに何となく落ち着かない気分になるのは何故だろうと
考えて気付いたのは2人の距離だ。
最初こそ適度な隙間があったのに、いつのまにか適度じゃなくなっている。
それともオレが2人の仲を知っているから、そう思えてしまうだけだろうか。
でもその距離で阿部が三橋に話しかけるたびにハラハラする。
顔近いんですけど! と何度思ったかわからない。
話している内容は他愛無いことで「何食べる?」だったりするのが
せめてもだけど、それにしても呆れるほどのかいがいしさで
尻のあたりがむずむずする。 むずむずだのハラハラだの1人で密かに忙しい。

というより、疲れる。

三橋がじっと阿部の首筋を見ている時、またハラハラした。
嫌な予感は今度は当たって、彼女が笑いを含んだ声で余計なことを言った。
実は根に持っていたのかもしれない。

「三橋くん、それに触っちゃダメよ」
「へ」
「触ると阿部くん、すごーく怒るから!」
「え?」
「私、さっき触ったら払いのけられちゃったのよお」

途端に三橋は真っ赤になった。

「ご、ごめんなさい・・・・・・」
「・・・・・・・なんで三橋くんが謝るの?」
「や、あの」

三橋は失言に気付いたのか、さらに首まで赤くなった。
ハラハラが終ってくれない。
阿部を見ると下を向いていて表情がよくわからなかったけど
口の端がうっすらと持ち上がっているのが見えてしまって、
理屈抜きでぞわっと鳥肌が立った。 ヤバいこいつ。 
どうヤバいかというと。

「三橋は、いいんだよ。 触っても」

ああ、言っちゃった。

本日2度目だ。 でもこいつなら言いかねない、ともうわかっていた。
ここに至ってようやく気付いたからだ。 遅過ぎたけど。
何で渋ったのか、嫌な予感の正体が今頃わかった。
初対面の時もバイト先の店で最初に遭遇した時にも感じたことなのに迂闊だった。
まさか本人が来るとは思っていなかったけど
もしかして水谷はこうなることまで予想していたのかもしれない。

「投手は特別だからな」

楽しそうに、阿部はまた言った。 本気でごまかす気なんてないに決まってる。
それくらいなら最初から言わないだろう。
女友達の顔は、敢えて見なかった。
阿部の言葉をどう解釈したかなんてもうどうでもいい。
早くこの時間が終ることを祈るのみ。
できればこの後は何事もないことを願いたいけど、そうなってもならなくても大差ない。

つまりこの男には、恋人が絡むと何をしでかすかわからない雰囲気があって
全然安心できない。
しかもおまけに雰囲気だけで済まない辺りがなんというか。

「・・・・・・・・心臓に悪い」

ぼそりとつぶやいたら 「だろ?」 と顰めた声が聞こえた。
見れば水谷は笑っていた。 
そして笑いながらまたひそひそと謎のようなことを言った。

「まあさ、三橋だからってのもあるけどなーきっと」
「・・・・・・・・?」
「でも慣れるから」
「・・・・・・・・そうかな」
「慣れれば面白いからさ!」

水谷に本気で、大いなる尊敬の念を覚えた瞬間だった。















                                        後悔先に立たず 了

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