キスが甘くなる時 -3





正確にはそれは事件ではなかった。 出来事ですらなかった。

廊下で阿部がクラスメートと話しているのが聞こえただけのことである。
立ち聞きしたわけではないけど、結果的にはそういうことになった。
自分の姿は阿部からは死角になっていて見えないところにいたので、
阿部もまさか自分が聞いているとは思ってなかったのだろう。
三橋も最初から 「聞いていよう」 と考えたわけではない。  聞こえてしまったのだ。

「賭け覚えてるよな?」  という聞き慣れない声に答えた声が
紛れもなく阿部のものだったので、一瞬三橋は硬直した。
こっそりと窺い見ると相手の生徒は三橋も名前だけは知っている、
阿部のクラスメートだった。  無意識に耳に神経を集中した。

「・・・覚えてるよ」
「オレもうすぐだぜきっと。」
「ふーん」
「あとちょいで好きって言ってもらえそう」
「はえーな」
「阿部はどうなんだよ。 まだ落ちねぇの?」
「あー・・・・・・・・うん、結構しぶとくて」
「じゃ、賭けはオレの勝ち、かな」
「まだわかんねぇよ」

そこまで聞こえたところで、2人は教室に入っていった。

(・・・・賭け。 ・・・・・・・・て何だろう・・・・・・)

心の中でやり過ごそうとして三橋は唐突に思い当たった。
「落ちる」 「しぶとい」 という言葉の意味は。   まさか。

(オレのこと・・・・・・・・???)

そんなまさかと思う一方で、 でも という疑いを消すことができない。
自分は何かの賭けの道具にされているのかもしれない。
可能性はある、 と思ってしまうのは
中学の時に似たようなことをされた苦い思い出があるからだった。
でもそれは中学の話だ。 嫌われていた環境でのことだ。  今は違う。
それにそもそも阿部がそんなひどい賭けをするとは思えない。 でも。

他に理由が見つからない。 阿部のあの不可解な行動の。
自分が 「感じた」 と言えば、それか 「好き」 とでも言えば

(・・・・・・・・阿部くんは賭けに、勝つんだろうか。)

そう思い至って。

足元がガラガラと崩れ落ちるような絶望感を覚えた。

凍りついたように三橋はその場に立ち尽くした。










○○○○○〇

それ以来三橋は阿部と2人きりになるのを避け始めた。
事の真相がわかってしまった以上、つらくてたまらなかった。
混乱しながらも、阿部に触れられるのが嬉しかったのだ、と気付いてしまったからだ。
たとえ擬似でも希望みたいなものを感じていたかったのかもしれない。
否定しながらも 「もしかして」 と淡い期待を抱いていたことを、
三橋はあの瞬間唐突に自覚した。

仮にそれを抜きにしても、阿部に触れられるのはやはり幸せだった。
いつのまにか、どこかでそれを待ち望んでさえいたのだ。

でももう希望はなくなった。
だから避けた。
阿部が時折自分の顔を不審気に見ているのがわかったけど、どう思われてもいいとすら思った。



なのにその日はまた2人きりになってしまった。
三橋の着替えと片付けが常以上に遅くなったからだ。
阿部はそんな三橋を待っていた。 三橋の絶望なんて知るよしもなく。
そしてその日はいつもと少し違った。
少しどころが大いに違った。 本質は同じかもしれないけど。

阿部は三橋に静かに近づいた。
それに気付いた三橋は無意識に身構えた。
続いて阿部が三橋の腕を掴んだ、ところまではいつもと同じような流れだった。
三橋は小さく体を震わせながらも、振り払おうかと一瞬悩んだ。
もっとも 「振り払う」 芸当などできる自信もなかったけれど。
しかし三橋の中で結論が出ないうちに阿部はいつもと違う動きをした。

三橋は阿部の手の動きに神経を集中していたので、気付くのが遅れた。
気配を感じて顔を上げた時はもう逃げられなかった。
あ、  と思った時には口を塞がれていた。

それはほんの僅かな時間だったけれど。

阿部が離れたあと三橋は驚きのあまり顔を隠すことも忘れて、目の前の顔を凝視した。 
だってこれはもうごまかしようがない。
触れるくらいなら単なる接触と言って言えないこともない。
三橋の受け止め方がおかしいのだ、 という言い訳も成り立つ。
でもいくら何でも普通の友だちにはキスなんかしない。
阿部がこれまで以上にあからさまに不自然なことを仕掛けてきた。  ということは。

三橋は回らない頭で考えた。

そこまで賭けは切羽詰っているのか  と。

呆然としている三橋の耳に質問が聞こえた。 いつもと同じように。
でもその内容も今回は少し違った。

「イヤだった・・・・・・?」

イヤじゃなかった。  イヤなわけがない。
だってずっと好きだった。  阿部とキスする夢だって何度も見た。
夢にまで見た瞬間のはずなのに。

(何でこんなに、 ・・・・・・・・悲しいんだろう・・・・・・・・・。)

それにもしかして自分にとっては、ファーストキスだったのではないだろうか。
三橋はぼんやりとそう、思った。
ここで自分が 「いやじゃなかった」 と言えば阿部は賭けに勝つのかもしれない。
三橋はそうも思った。 もしそうなら。

(この儀式みたいなことも、・・・・・終わりに なるんだな・・・・・・)

終わりにしたいような、したくないような何とも複雑な心境になった。
何て答えればいいのか、三橋にはわからない。
自分がどうしたいのかもわからない。

「・・・・・わから・・・・・ない」

正直に答えた。

「ふぅん」

阿部の返事は内容も調子も、いつもと同じだった。


その日家に帰ってから三橋は部屋でひっそりと、泣いた。








○○○○○○

その後は2人きりになると、今度はキスをされるようになった。
阿部は黙って近付いてきて、硬直している三橋にそっと触れるだけのキスをする。
そして必ず 「イヤだった?」 と聞く。
三橋は判で押したように 「わからない」 と答える。
「ふぅん」 と阿部がつぶやく。
内容が変わっただけで、儀式みたいな空気は相変わらずだった。
賭けはまだ終わってないらしい。

そこに至って三橋は半ばやけくそな心境になってきた。
やけくそなりに、せめて思い出にしようと、前向きなことも考えてみた。
でも夢見ていたはずの阿部とのキスは苦いばかりだった。
ドキドキはする。  けれどつらい。

とても、つらかった。

気持ちの伴わないキスなど何回されてもむなしいだけだった。
そのたびに三橋は1人になると悲しくて涙が零れた。


同じようなことがその後3回ほど起こり、3回目の夜に自室で1人涙を流しながら
三橋は悟った。

これ以上はもう、 限界だと。














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