キスが甘くなる時 -1





事の発端はたまたま田島と泉あたりがふざけてじゃれていたことだった。
たまたまと言っても、朝練が終わったあとの部室のいつものよくある光景だ。

いつもと少し違ったのは、泉が何かの拍子に三橋にぶつかって
運悪く三橋が不安定な姿勢だったもんだから、後ろによろけて
そのまま勢いよくロッカーの角に背中をぶつけてしまった ということだった。
しかし部室の中は騒々しかったし、三橋も大して痛そうな顔をしなかったし
田島と泉は 「あー三橋、わりぃ!」 とすぐに謝ったしで、特に問題ともいえない出来事だった。


ところがその後、ぞろぞろと連れ立ってそれぞれの教室に向かう途中で
集団の一番後ろを歩いていた阿部がすぐ前の三橋に小さな声で囁いた。

「三橋、おまえ、シャツに血が滲んでる。」
「え?!」
「背中んとこ」

三橋は驚いた。 そんなに強くぶつけたとは思ってなかったからだ。

「まだ時間あるから保健室行こうぜ。」

阿部の言葉に一度は 「いい・・・・・・・」 と首を振りかけたが、
阿部は剣呑な目つきでじろりと三橋を一瞥した。
それを見て、こういう時の阿部は絶対に譲らないということを三橋は思い出し、
ビクつきながらも頷いた。
さらに 「1人で大丈夫」 という三橋の遠慮を阿部があっさりと無視したので
保健室には連れ立って行くこととなった。







〇〇〇〇〇〇


保健室は鍵は開いているにも拘わらず担当の先生は不在だった。

(先生いないし、痛くもないし・・・・・・・)

ぼんやりと三橋が思っていると 「座って」 という阿部の声が聞こえた。

「え?」
「どんなんなってるか見てやるから座って」
「あ・・・うん・・・・」

にわかに鼓動が速くなるのを、三橋は自覚した。
なぜならば、三橋は実は阿部のことが好きだった。
大分前から仲間とか友だちという域を超えて好きだった。

けれどもちろん告げる気はさらさらなく、ずっと片思いでいいと諦めている想いだった。
それでも練習の折に体に触れられたりすると、たちまち心拍数が上がってしまうのは、
意思ではどうすることもできなかった。
練習のうえでの接触でもそうなんだから、ましてやこんな野球とは関係ない場所で
しかも2人きりとなれば自然と顔が火照ってしまいそうになる。
でも傷は背中だから顔は見られずに済む。
そのことにホっとしながら三橋は言われるままに、阿部に背を向けて丸椅子に座った。
なのに。

「やっぱ見づらいからあっちでうつ伏せになって。」

事も無げに言いながら、阿部は奥のベッドを指し示した。

「えっ・・・・・・・・・」

三橋は内心慌てた。 顔が急速に赤くなるのが自分でわかった。

「早くしろよ。 時間なくなるぞ。」

阿部はそんな三橋に頓着することなくイライラしたように言った。
その様子に、ここで躊躇したら却って変に思われると咄嗟に恐れ、
三橋は急いでベッドに行き上履きを脱いだ。
何とかごまかせますようにと それだけ願いながら、ベッドの上にうつ伏せになった。
顔は見られないということだけが拠り所だった。

阿部の手がシャツにかかり背中が露わにされる。
それだけでもう死ぬほど恥ずかしい。
阿部に素肌をじっと見られていると思うと、背中がぞくぞくと粟立つのを止められない。
固く目を瞑って冷たいシーツに火照った頬を押し付けた。

「・・・・・・・・・・。」

阿部は黙っている。 出血は多いのだろうか。 自分では全然わからない。
沈黙に耐えられなくなって三橋は問いかけた。  声が上ずらないように気を付けながら。

「いっぱい、 出てる・・・・・・・?」
「あ、うん、ちょっとだけ。 大したことない。」

良かった、 と小さく安堵のため息を吐いてから
それならもういいなと思ったけれど、体が動かない。
阿部の視線のせいで緊張して動けないのだ。

(ど、どうしよう・・・・・・・・・)

こっそりと困っているとその時。   阿部が動く気配がした。
直後背中に温かくて湿った感触が当たった、 のがわかった。

「!!!!!」

反射的に身をよじった。
声を出さなかったのが奇跡だった。  それくらい強く感じた。
すぐには状況がわからない。   と、いうより認識したことが信じられない。

(阿部くん、 が、 ・・・・・オレの、背中を・・・・・・・・・)

舐めている、 と思ったらさらにいっそう体が熱を帯びた。

(どうしよう)
(何でこんな)

「・・・や・・・・・・・・」

必死の拒絶はほとんど言葉にならなくて涙声になった。
下手すると喘ぎ声みたいになりそうだ。

(こ、これじゃ、  絶対 変に・・・・・・思われ・・・・・・・)

三橋の焦りをよそに、阿部は黙って三橋の背中に舌を這わせ続けている。
びくりと、体が勝手に揺れた。 抑えることはできなかった。
浅くなった呼吸を悟られないようにするので精一杯だ。 
無意識に手がシーツを固く握り締めていた。

もう限界だと泣きそうになった瞬間、ようやく舌が離れた。

「大したことないから手当ては要らねーかな。」

阿部は平然とそう言いながら、無造作にシャツを下ろした。
呪縛が解けたように大きく、でもこっそりと三橋は息を吐いた。
心臓はまるで全力疾走した後のように激しく打っている。

三橋はそろそろと身を起こした。
真っ赤になっているであろう顔を見られないように俯きながら上履きを履いた。
阿部の顔はとても見れない。
阿部のほうには全然他意はないのだろう。
傷を舐めるのは小さい頃はよく親にされた。  まさか阿部にされるとは思ってなかったけど。
阿部は案外世話好きなところがある、とは三橋にもすでにわかっていた。
こんなに意識しては妙に思われる、 と三橋は収まらない動悸を持て余しながらも
普通の顔を作ろうと努めた。
そんなふうに三橋が内心の動揺をぎりぎりのところで抑えながら
必死で平静を装ってぎくしゃくと動いていると。

阿部の口から恐ろしい言葉が発せられた。  それもごく普通の調子で。

「三橋、 さっき感じた?」
「!!!!!」

息が止まりそうになりながら、思わず顔を上げて阿部を見てしまった。
返事などできるはずもない。

「なぁ、どうなの。」

阿部は流してくれる気はないようで、三橋を正面から見つめながら再び問いかけた。

(何で、 そんなことを。)

パニックになりながらもふと、思った。

(感じたと言ったら・・・・・・どうする気、なんだろう・・・・・・・)

思っただけでそんな勇気など、とてもないこともわかっていた。 ごまかすしかない。

「・・・・別・・・・に・・・・」

声が掠れた。

「ふぅん」

阿部はつぶやいた。 ごく普通の表情だった。
声に僅かにつまらなさそうな響きがあっただけで。
自分は今どんな顔をしているのだろう、と三橋は不安になった。 一番怖いことは。

(ばれたらどうしよう・・・・・・・)

思った途端に阿部の顔から目を逸らしたくなった。
何もかも、顔に出てしまっている気がする。
でも逸らせない。 阿部がじっと自分を見つめているからだ。 まるで探るように。
体は再び硬直していて、ぴくりとも動かせない。

「じゃ、もう行こうぜ。 授業始まっちまう。」

三橋の内心をよそに阿部は淡々と言って、くるりと背中を向けたかと思うと
さっさと出口に向かった。









○○○○○○

その日は授業にまるで身が入らなかった。
阿部はなぜあんなことを聞いたのか。  自分の様子がおかしいことがわかってしまったのか。
それしか考えられないような気がした。
あるいは隠していた気持ちにとっくに気付かれていて、からかわれたのかもしれない。

三橋は頭を抱えたくなった。




その日の放課後部室に向かう三橋の心中は、まだ朝からの混乱やら羞恥やらで
通常の精神状態からはかけ離れていたのだが。
阿部はまったくもっていつもと同じだった。  拍子抜けするほど見事に。
なので三橋も、もう気にするのはよそうと自分に言い聞かせた。
意識しまくった結果挙動不審になり、想いがバレるのが何より怖かった。
そして何日か経つうちに三橋は保健室での一件を忘れた。 少なくとも1度は。



しかしその時の三橋には知るよしもなかったが、
それはまだほんの序の口だったのである。














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                                                   阿部が変態くさいのは不動の設定。