秘め事 -3(A)





緊張しながら待っていると三橋が小さく頷いた。

「・・・・・うん」
「で? どうすんの?」
「え・・・・・・断った よ」

いともあっさりと、望んだ答が返ってきて一気に弛緩した。
無意識に漏れた息は外の音に紛れてくれたことを願う。
最大の心配事が消えて緩んだ途端に、唐突に浮かんだことに自分でぎょっとした。

いっそ言ってしまおうか、今。

何でそんなことを思ったのかわからない。 薄闇のせいか、異質な雰囲気のせいか。
バカな、とすぐに打ち消した。 
言うにしても野球に支障のない時まで待とうと決めていた。 
なのにこの衝動は何だろう。

本当は理由はわかっている。 誰かのものになっちまうんじゃないかと
ついさっきまで鬱々としていたせいだけじゃなく。

夜中の出来事がフラッシュバックする。 
夢だったみたいでもオレしか知らなくても、あれは現実だ。 
ちゃんと覚えている。 薄い布越しの感触も温もりもまだ生々しく残っている。
本当はもっと強く思い切り抱き締めたかった。
あの時だけじゃなく、いつだってそうしたかった。 今だって。

ほんの2〜3歩歩いて手を伸ばせば届く。
理由もなくいきなり抱き締めたら三橋はびっくりするだろう。
そしてどうするだろう。 突き飛ばすか、それとも驚きのあまり固まるか。

ぐるぐると考えながら固まっているのはオレのほうだ。
だってダメだってわかってる。 
そんなことをしたら今まで築いてきたものが全部崩れる。 
培うのは長くても、壊れるのなんか一瞬だ。 
ほんの少しの距離が遠いのは絶対に詰めちゃいけないからだ。
三橋のために。 そしてオレのためにも。

言い聞かせながら絶望的な気分になった。
だって昨日の寝る前にも同じような衝動を感じた。 夜中だってヤバかった。
オレは一体このやっかいな衝動を何度、やり過ごさなけりゃならないんだろう。

そう思ったらぞっとした。 できるんだろうか。

沈んでいくのを自覚しながら、そこでふと別の不安が湧いた。
今オレはどんな顔をしているんだろう。
三橋は今は俯いているけど、三橋からは逆光じゃないから
その気になればオレの顔は見えるだろう。
こんなヨコシマなあれこれが表情に出ていたらマズい。

精神力全開で気を引き締めた、まさにその時三橋が言った。

「阿部くん、 な、なに 考えて・・・・・・」

ひゅっと小さく息を呑んでからパニックに陥った。
何でそんなことを。 もしかしてバレたのか。
ロクな思考も回らないうちに三橋は続けた。 今度は慌てたような声だった。

「あ、ごめ、 だからあの、・・・・・な、何か その オレ のこと」

いつもならイライラするような要領を得ない物言いにも
オレは苛立つどころじゃない。 呼吸が上手くできない。
息を詰めて続きを待った。 断罪されるような気分で。

「あの 何か オ、オレに言いたいこと が」

どんどん苦しくなる。 やっぱりどんなに隠していても滲み出るものなんだろうか。 
三橋はどんな顔で聞いているのか、表情が窺えないのがまた怖い。 

「じゃな くて、 だから オレ、・・・・・・・・ごめんなさい」
「・・・・・は?」

最後の 「ごめんなさい」 がちぐはぐで、思わず聞き返した。
表情はまだ見えない。

「オ、オレ、何か 怒らせた のかなって・・・・・」
「・・・・・へ?」

マヌケな声が出た。 口から出そうだった心臓が元の位置に戻った。 
呼吸も大分楽になる。 だってわかったからだ。
これは多分、三橋のいつものアレだ。

「な、なのに ちゃんとわか らなく  い、いつも あの もっと
 いい言われる前に 気付か ない とっ  おおおも  てもでで きなく  う」

最後の 「う」 は湿った響きを帯びた。
後半がどんどん怪しくなる日本語をオレはちゃんと理解した。
以前ならわからなかったとこだけど、この程度なら大丈夫になった
ってことはそれでも進歩したんだと思う。
急速に落ち着きながらそんなことがよぎった。

緩みすぎて束の間ぼうっとしてから、はたと気を引き締めた。
気付かれたわけじゃなさそうだけど、オレの雰囲気が変だったのは間違いない。
多分今だけじゃなく、昨日の夜から。
三橋はそれを悪い方向に誤解してびくついている。 謝ろうとしている。 
つまり今オレの言うべきことは。

「あー、オレ別になんも怒ってねーよ」
「・・・・・・・・・・。」
「昨日はちょっと考え事してて、ぼんやりしてただけで」
「・・・・・・・・・・。」
「おまえまた考え過ぎなんだよ」
「あのでも」
「なに?」
「オレ、ごめん ね、 ほんとは 阿部くんの考えてること とか」

またひやりとした。

「・・・・ちゃんと汲んで もっと ちゃんと」

いや汲まれたらマジ困るから!
という内心の叫びは声にも、そして顔にも出さずに言ってやる。

「そんなに気ぃ回さなくていいよ」
「・・・・・・・・。」

暗くて表情が見えないのはやっぱ良くない。
わからないけど、言い方がマズかったかもしんないと念のために付け加えた。

「大丈夫だから」

言った途端に大人しくしていた心臓がまた飛び跳ねたのは
夜中のことがどかんと蘇ったせいだけじゃない。
ずっと俯いていた三橋の顔が勢いよく上がったからだ。
驚いたような目で、でもそれだけじゃない、別の何かが掠めたように見えた。
だもんでぎくりとして、また動けなくなった。 その顔を凝視した。

掠めた何かは一瞬で消えて、いくら目を凝らしてもわからなくなった。
気のせいだったのかもしれない。 
でもそもそも何で、ここでそんなにびっくりするんだろう。
まさか、とは思うけど。

(あの時起きてた、なんてことは・・・・・・・・)

眩暈がした。
それで変なことを言い出したんだとしたら辻褄が合う。 合いすぎる。
おまけに顔が何だか赤くなっているような気がすんだけど、暗くてよく見えない。
もっと近寄ればわかるだろうけど、そんな危険なことはできない。
冷や汗が出たところで、三橋はまた下を向いてしまった。

それともオレのほうこそ考え過ぎなんだろうか。
顔を上げたのは単純に安心したからってだけで
赤くなるのもよくあることだし、三橋は何も知らなくてたまたまかもしれない。
どっちにしてもヘタなことは言えない。 
指先まで固まったまま動けずにいると、三橋が言った。 普通の声だった。

「ありがとう・・・・・・」
「・・・・・・・や、別に」
「オレ、 つい いろいろ 考えちゃって」
「・・・・・・か、考えるのはいいことだよな!」
「き、昨日の夜 とかも何か言いたかった、んじゃないかなって」

また汗が噴き出る。 何度目だ。

「でも 阿部くんは な、何かあれば、ちゃんと言って、くれるもん、ね」
「おお、言うよ?」
「そう、だよね、良かった・・・・・・・・・」

良かった、は正直こっちだった。
三橋は、きっと何も知らない。 ただオレの様子が変なのだけを察知して、
いつものように自分のせいにしただけだ。
あの時起きていたらもっと何か余計なことを言いそうだし、その前に態度に出るだろうし。

安心したら、体がまた弛緩した。
今日は厄日、というよりジェットコースターだ。
上がったり下がったり忙しくて目が回る。 てか心臓負荷のトレーニングか。
ただ立っているだけなのに、こんなに心臓とか筋肉とか酷使した気分になるのって
どうなんだ。 いや気分じゃなくて実際酷使している絶対。
脱力しながらも改めて自分に言い聞かせた。

オレはこの気持ちを言う気はない。
少なくとも今ではない。
だからおまえは安心していいんだ。 大丈夫なんだ。

切ない気分を追い払うのはお手の物だ。  とはいえ、今のこの状況は危険だ。 
誰もいない暗い教室で2人きり、で暴風雨の音だけが響く中
またおかしな衝動に囚われる前に予防をする。 演技だってする。

「おまえ、もう帰れるんだろ?」
「え、うん」
「じゃあ行こうぜ? 雨すげーけど」

普通に言えたと、思う。
それを三橋の顔で確認して安心したいのに。

俯いたまま頷いた三橋の表情は、最後までよく見えなかった。
















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