秘め事 -1(M)





阿部くんが何か言っている。 でもよく聞こえない。
別に遠くにいるわけでもないのに近くにいるのに、声が不鮮明で聞き取れない。

阿部くんは少し不機嫌そうに眉を顰めているから
きっと何かで怒っているか、イライラしているんだと思う。
それはわかるんだけど、何に怒っているのかわからない。
それに時折それだけじゃない何かも混ざっているようで気になって
聞きたくて堪らないのに、声が聞こえない。

「あ、あの 何て 言ってる、の・・・・・・・」

勇気を出して聞いてみた。
阿部くんは困ったような顔になってから、また口を開いて何か言った。
でもやっぱり聞こえない。
オレも困ってしまってどうすればいいのかわからなくて
おろおろしながらも正直に言ってみる。

「き、聞こえない、んだ」

阿部くんの顔が今度は悲しそうになった。
何か短い言葉を言った後オレの顔をじっと見て、それからくるりと背を向けた。

「えっ・・・・・・・」

阿部くんが遠ざかっていく。 去っていってしまう。
阿部くんの言葉がオレには聞こえないから。

阿部くんはオレに見切りを付けて行ってしまう。

「い、行かない で」

搾り出した声は涙混じりになって、でもそれを取り繕う余裕もない。

「阿部、くん」

行かないで、戻ってきて と願いながら追いかけようとする。
なのに足が動かない。 空気が重いからだ。
どんよりと、水あめみたいな濃厚な空気が足に纏わり付いていて、
一歩踏み出すのすら大変で。  
そうしている間にも阿部くんはどんどん遠ざかっていく。

「阿部くん・・・・・・・・!!」

小さくなったその背に泣きながら声だけで縋る。
もうダメだ と絶望しながらだったけれど、ふいに阿部くんは振り返った。
と思ったらやすやすと戻ってきた。

それから優しく抱き締めてくれた。  夢中で背中に手を回してしがみついた。
何か言いたいのに涙が邪魔で口がきけない。
よしよし、という手付きで髪を撫でてくれながら阿部くんは言った。 
優しい声だった。

「大丈夫だから」

ああこれは夢だ、 と思った。
野球と関係ない場で阿部くんがこんなふうに抱き締めてくれるなんて、
夢に決まっている。
夢でも嬉しくて回した手にぎゅうと力を入れた。









************

目が覚めた時、見慣れない天井が目に入った。
雨の音が聞こえるってことは外は雨だ。
そういえば天気予報で今日は荒れるって言っていたような気がする。
春の嵐、て言ってたっけ。
となると練習ができなくなる、かも。

ぼうっとそんなことを考えてから ここはどこだろう と今さら思ったところで
急速に頭がはっきりした。 同時に思い出した。 そうだった。

(阿部くんちに泊まった、んだっけ・・・・・・・)

一気に全部思い出して、オレは隣のベッドを見た。
まだ暗いってことは夜中か早朝で、阿部くんはまだ眠っていた。
その寝顔をつくづくと眺めた。

昨日は阿部くんと強豪校どうしの試合のビデオを見た。 誘われたからだ。 
見ながら阿部くんがあれこれ解説してくれて、すごく勉強になった。
見終わってからも阿部くんは熱心にいろいろ話してくれて嬉しくて
夢中で聞いていたらいつのまにかすっかり遅くなっていた。
それで阿部くんのお母さんが心配してくれて、結局泊まることになった。

オレはこっそりとドキドキした。 
もちろん、いっしょのベッドとかじゃなくて、隣にお布団を敷いてくれたんだけど
暗闇の中で阿部くんがすぐ傍で寝ていると思うと落ち着かなかった。
合宿とかと違って2人きりだし、おまけに阿部くんの匂いがするしで
絶対眠れないと思ったのに、いつのまにか寝てしまったんだ。
その時は幸せな気分だった、と思うんだけど。

(変な夢、見たな・・・・・・・・・)

最後は文字どおり夢みたいだったけど、前半がすごく変だった。
何でだろう、と首を傾げてから思い出したのは寝る前の阿部くんだ。
後は電気を消すだけ、という時に何か言いたそうな顔をした、ような気がした。
黙って待っていても、阿部くんはオレの顔を見つめたまま何も言い出さない。
勘違いだったのかも、と思ったけど阿部くんがあんまりじいっと見ているんで
どぎまぎして目を逸らしたりして。

「あ、あの、何か・・・・・・・・」
「あ、うん、いや その」

沈黙に耐えられなくて聞いてみたら、阿部くんは
珍しく歯切れの悪い言い方をした。 まるでオレみたいに。

「・・・・・・何でもねー。 もう寝るぞ」

え、 と思った時にはもう部屋が暗くなった。
それで 「おやすみなさい」 って言ったんだけど、
「おやすみ」 て返ってくるまでまた間があったりして、何だか変だった。
気にしない、と流してしまったけど、どこかで引っ掛かっていて
それが夢に出てきたのかもしれない。

思い出しながらオレは阿部くんの寝顔から目が離せない。
阿部くんのことが全部好きだけど、顔も大好きだ。
でも普段はあんまりじっくりと見られない。
用事もないのにじろじろ見たら変に思われるし。
オレの気持ちは絶対内緒だから、怪しまれることはしちゃいけないんだ。

1人でいる時に阿部くんを思い浮かべると、怒っている顔か真剣な顔の
どちらかが出てきてしまう。 それが一番見慣れた顔だからだけど、
だからこんなふうに無防備に眠っている顔は新鮮で、幾らでも見ていたい。
目を閉じているのが残念だけど、開いたら見られなくなるからいいんだ。
見惚れながらまた考えた。

阿部くんは、寝る前に何を言いたかったんだろう。
その前の会話にも特に思い当たることはないんだけど、
オレがバカだから気付いてないだけで、何か失敗とか失言とかしたのかもしれない。
その時もそう思って、だったら謝らなきゃと思ったんだけどできなかった。
もしそうなら呆れられたかもしれない。

怒られるより見捨てられるほうが怖い。
そうならないように、阿部くんの考えていることが全部わかればいいのに。
でもそんなことができたらきっとつらい。 だって。

(阿部くんに好きな子とかいたら、わかっちゃう・・・・・・)

時々イヤでも考えてしまう。
もし阿部くんに恋人ができたら。
そのコはこんなふうに寝顔を見る機会もあるんだろうな。
うっかり想像したら目の奥が熱くなった。 

(バ、バカだオレ・・・・・・)

オレにできることは、阿部くんに呆れられないようにせめて話をちゃんと聞いて、
ちゃんと理解して言われたことを守るようにして、野球頑張るんだ。
独占したいなんて思わないんだ。

言い聞かせながら阿部くんの寝顔をじっと見ていたんだけど。

魔が差した。 そうとしか思えない。
でもこんな機会もうないかもしれない。
ほんの、ほんのちょっとでいいから野球以外の思い出が欲しい。

考えた途端に体全部が心臓みたいになった。
そのせいで息が苦しい。 なのに止まれない。
きっとオレは今、普通じゃないんだ。
部屋は暗いし阿部くんは熟睡しているし、雨の音がするせいだ。
起きたらどうしようと怖くて堪らないのに
思うこととは逆に体がふらふらと近寄っていく。 

(そうっと・・・・・・・・・)

阿部くんの頬に口をくっ付けてから、すぐに離れた。

体中がどかんどかんとして爆発しそうだ。
自分が信じられない。
心臓があんまり凄いことになったせいで、それ以上見ることもできなくて
オレは音を立てないように自分の布団にまた潜り込んだ。
頭まですっぽりと被って丸くなるとちょっと落ち着いたけど。

(キ、キ、キス しちゃ・・・・・・・)

と思ったら収まりかけたドキドキが復活したうえに
ふと夢の最後のところが蘇って、うわあっと頭を抱えた。
あれはきっとオレの願望だ。
あんなふうに抱き締めてほしいって思ってるから、あんな夢を見たんだ。 
阿部くんがいつか抱き締めるのはかわいい女の子なのに。
恋人ができたらその子は抱き締めてもらったり寝顔を見たり、
それからキスだって してもらえるんだろうな。

ドキドキしながらあれこれ余計なことまで考えてしまって
動悸がますますひどくなった。
いつのまにか楽しいだけじゃなくて、嫌な感じのドキドキも混ざっている。
そしてすぐに、そっちのほうが大きくなった。

恋人ができたら、もうさっきみたいなことは絶対できない。
人のもんになったらその人に悪くてできない。
けど、今はまだフリーだから許してほしい。
好きでなくなることもできないかもだけど、それも許してほしい。 でも。

(ごめんなさい・・・・・・・)

心で謝っても罪悪感が消えなくて。

(ごめんなさいごめんなさい・・・・・)

小さくなりながらオレは顔も知らない誰かに一生懸命謝り続けた。
楽しいドキドキは、すっかり消えてしまっていた。

息が苦しくなって布団から少し顔を出すと、しんとした中に雨の音が耳についた。
ざあざあと響くその音は、さっきより激しくなっていた。
まるでオレの心みたいに。


部屋はいつまでも暗くて、朝はまだ遠いみたいだった。















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