春の憂鬱




(オレはなんだってこんなに)

イライラと考えても結論は出ない。 
阿部は唇を噛み締めた。 おかしい、こんなはずじゃなかった。
懸念したのは別のことで、自分のことですらなかったのに。

きっとテンパるだろうなと思っていた。
動揺だってするかもしれない。
実際問題己のポジションにより優れた人材が入ってくれば、
焦燥だの発奮だのは誰にだって湧く感情であり、
ましてや三橋は人一倍投手への執着が強いうえに
後ろ向きになりがちな性格が早々に変わるとも思えない。
そんなふうに相棒の心配をしたのは一ヶ月前のことだ。

そして2年になって新入部員が入ってきて部員数は一気に増えた。
自己紹介の折に投手の経験者もいることがわかった時、
こっそりと横目で窺えば案の定三橋は複雑な顔をしていた。
けれどその後は特にうろたえるでもなく、その日の帰り道でぽつりと 
「オレ、頑張るよ、阿部くん」 と零した一言に頼もしさを感じた。 
三橋は大丈夫だ。
安堵しながら 「おお」 と受け止めたのはつい最近のことで、そこまでは良かった。

自分のことを考えなかったわけではない。
捕手志望や経験者がいても不思議じゃないし、正捕手の座を明け渡す気がない以上は
頑張るしかないわけで思い悩むことはなかった。
今までポジション争いがほとんどなかったことのほうが例外なのであって、
三橋の球を受けるためなら今までどおり、いやそれ以上に努力する覚悟なんて
十二分にできている。 
頑張る気満々なのは阿部だって三橋に負けていなくて、だから問題はそこではない。

「阿部くん・・・・?」
「・・・・・あ?」
「・・・・・ど、どうした の?」

おずおずと聞かれて舌打ちしたくなった。
練習中は表に出さないようにしていたのに感づかれたらしい。
練習の後に2人きりで残っての打ち合わせで、
まずは覚えてもらわねばならないデータの資料を渡して、
三橋が格闘している間に阿部のほうは全く違うものと戦っていたのは
その間だけとりあえずヒマだったからだ。
資料に没頭している三橋は、阿部の様子など目に入らないだろうと
どこかで高をくくったせいで油断していた。

「どうって何が?」
「あ、あの」
「・・・・・・・・・。」
「なんか、怒ってる・・・・・・?」

やっぱり気付かれていた。 苦々しさとともにふと感慨も覚えた。
怒ってるか? と聞いてくることすら覚束なかった1年前を思えば
三橋は確実に変わっている。
以前の三橋なら疑問形にはならずに 「怒っている」 と1人で決めつけて
びくついていただろう。
ライバルの出現に焦ることもなかった、あるいはあっても
捻じ伏せただけかもしれないが、それももちろん成長の証だ。
自分だって1年の間にそれなりに成長した、はずだ。
なのに今のこの焦燥感は何だろう。
どう考えても子どもっぽくて自分ながらうんざりするのに。

「・・・・・・・怒ってねーよ」

それは本当だった。 怒っているわけではない。断じて。
いや本当は怒っているのかもしれないが、そうと認めたくない。

「そ、そう か」
「それよか覚えたのかよ」
「あう」

慌てて資料に目が戻ったのを確認してから、こっそりとため息をついた。
怒りじゃなくても不機嫌なのは間違いなくて、三橋はそれを敏感に察知した。
三橋が人の感情に、中でも負の感情に敏いのは決して悪いことじゃないのだろうが
こういう時はやっかいだ。
大体がこんなことでここまで不快になること自体が不本意なのに、
第三者に指摘されたのがまた面白くない。

(いや第三者じゃねーか・・・・・・・)

むしろ当事者なのかもしれないけど、理由を言うわけにはいかないのだ。
葛藤は予想もしなかった方向から不意打ちのようにやってきて、
動揺した自分に驚いた。
腹を立てるようなことじゃないと、いくら理性で流そうとしても
どうにもならないのは一体なぜだ。

(とにかく、今は切り換えねーと・・・・・・)

三橋が覚えるまでに通常の状態になっていないと、打ち合わせに支障が出る。
言い聞かせて何とか気を落ち着かせることに成功した時
ばたん、とドアの開く音がした。
目を向けるとまさに苛立ちの元凶である人物が入ってきて、知らず阿部は眉を顰めた。
せっかく切り換えたところなのに、と湧き上がった文句はさすがに殺して
素早く平静を装った。

「あ、すんません! お邪魔します!」
「帰ったんじゃなかったのか」

感情が出ないように平坦な声で問うと、その後輩は屈託なく理由を言った。

「忘れ物しました! すぐ出ます!!」
「あ、ダイジョブ、だよ」

にこりと笑って返したのは三橋だ。
阿部はといえば、ともすれば皺が寄りそうになる眉間を伸ばすので忙しい。

「打ち合わせっすか?」
「うん、そう」
「オレも早く加われるように頑張りたいっす!」

かちんときたのは大人げなさすぎる。
その後輩のポジションが捕手だからといってムカつくのは間違っている。
実際早く加わるようになってくれなければ困るのだ。
正捕手の座を譲る気はさらさらないが。

阿部が冷静を保とうと努めている間にも、明るくて人懐こいその後輩は
ロッカーを漁りながらハイテンションでまくし立てる。

「今日は有難うございました!」
「え、あ、こちらこそ」
「オレ、感動しました!」
「え? そんな」

お礼は今日の練習に対してのものだろう。
今日三橋はその新入部員にも投げた。
どれだけいい音をさせるかチェックしていたのは秘密である。

「ほんとに感動しました! すごいっす!!」
「オレなんか、全然・・・・・・この資料だって覚えられない し」

赤面しながらの言葉は謙遜じゃなくて本心なんだろうなと
ぼんやり思っているうちに、後輩は目的を果たしたようだった。

「じゃ、お邪魔しました!」
「お疲れ、さま」

帰るためにドアを開けた背中を見送りながら、阿部は内心でホッとした。
どうやらこの場では聞かなくて済みそうだという安堵は、でも最後になって裏切られた。

「頑張ってください、廉さん!!」

自戒を忘れて、阿部は派手に顔を歪めた。
取り繕う余裕はなかった。
後輩が気付かずに出て行ってくれたのは良かったけれど、
ざらりと、心の奥底を紙やすりで擦られたような不快さは逃しようもなくて
鎮めたはずの苛立ちが急速にぶり返す。

「阿部くん・・・・・?」

訝しげに呼ばれて我に返った。
さすがに今のは露骨だったと慌てて引っ込めるももう遅い。
三橋が何か言う前にごまかそうとして、なのに出てきたのは半ば本音だった。

「随分仲いーじゃん」
「え・・・・・・・・」

ナマエで呼んだりしてさ、とは喉元で食い止めることができた。
絶対に言いたくないのは、それこそが面白くない原因と自覚しているからだ。
これではまるで嫉妬しているみたいだ。
みたいじゃないんじゃねーか? と掠めた自分突っ込みは全力で無視する。

「な、仲いい なんて あ、きっと誰にでもああで、オレ、なんか」

イライラが収まらない。
三橋は本気でそう思っているんだろうし、何も悪くない。
後輩と親しくなるのだっていいことに決まっている。 でも。

(誰にでも、じゃねーだろ・・・・・・)

初日にいそいそと三橋に駆け寄った姿を思い出した。
熱心に話しかける様子は嬉しそうで、明らかに入部前から三橋を知っていた。

(あいつはマジでおまえに憧れてんじゃねーの?)

確信に近いそれも言わない。 教えてなんかやるものか。
感情的になっているのを冷静に見つめる己がいて嘲笑う。
なんて小さいんだ。
たかが呼び方1つでこうも苛立つ自分にこそ腹が立つ。

(くそっ・・・・・ なんだってこんな)

この怒りをぶつけたい。 誰に?と考えれば目の前の奴だ。
肩を掴んで揺さぶって誰が一番なんだと怒鳴りたい。

浮かんだ想像に流石に少し頭が冷えた。
理不尽なだけでなく、いくらなんでもかっこ悪すぎる。
阿部は努力して三橋に笑いかけた。

「まあいいや。 とにかくさっさと覚えちゃいな」
「え、うん・・・・・・・・・」

素直に頷いて資料に戻った三橋から目を逸らす。
嫉妬なんかじゃない、きっと、多分、あり得ない、だってバカみてーだ
と1人で忙しなく畳み掛けた末に、阿部はついに諦めた。 

(嫉妬かなやっぱ・・・・・・・)

そこは認めるしかなかった。
でも、と気を取り直す。
どれだけ遠回りしてここまで近くなったかを思えば、おそらく当然の感情なのだ。 
別におかしなことじゃない。

(・・・・・・変じゃねーよなオレ)

普通だ普通なのだ普通に違いない、苛立ち具合が尋常じゃないなんて気のせいだ。

そう結論づけても全然すっきりしなかった。
普通だろうが異常だろうが面白くないことに変わりはない。

明日からも毎日のように聞かされるのだろうから、今からこんなでどうする、
と阿部は憂鬱なため息をまたひっそりと吐いたのだった。













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