そんなわけでバレンタインデーである。

その日水谷は何とはなし、そわそわした気分で登校した。
特に欲しい相手が限定でいるわけでもないが、
やはり落ち着かない気分になるのは、かわいい誰かがチョコをくれないだろうかとか
それがきっかけで野球一色の生活に別の彩りが加わらないかとかの期待が
どこかにあるせいだ。

なので、朝の部室に入るなりいつもと違う匂いがするのに
一瞬で気付くと同時にその正体もわかった。
運動部の部室特有の、お世辞にもいい香りとは言えない饐えた匂いの他に
場違いな甘い香りが混じっている。

続いて一歩中に入るなり、甘い匂いの発生元もすぐにわかった。
水谷はすでに来ている数人のチームメイトたちに挨拶するのも忘れて
ぽかんと、その箱に見入ってしまった。
呆れるくらいに、それは巨大だった。

部室の真ん中にでんと鎮座しているそれにチョコレートが入っているのは疑いの余地がない。
そこからぷんぷんと放たれる匂いが雄弁に告げている。
包装もされているが、店のそれとは思えない、つまり素人がきれいな紙でぎこちなく
自分で包んだように見える、ということは手作りで、しかも大きさからすると
ケーキではないだろうか。

そこまで呆けながらも推測してから、ふと周囲を見ると
チームメイトたちが着替えながらちらちらと、その箱に視線を走らせていることに気付いた。 
やはり皆気になるらしい。  これだけ目立てば気にならないほうがおかしいが。

「・・・・・はよ」
「・・・っす」
「おはよー・・・・・・」

遅ればせながら挨拶した水谷に返す声も皆どこか上の空だ。

「これ、誰のだろう・・・・・・?」

無邪気に発した水谷のつぶやきにその場にいた数人、栄口、泉、巣山、が一斉に反応した。

「絶対チョコだよなこれ?」
「匂いがそうだもんな!」
「誰がもらったやつ?」
「オレじゃねーよ」
「オレでもない」

3人は首を振りながら、残った花井を見た。
しかしそこで花井も否定した。

「オレのじゃないよ。 オレが来た時もうあったんだこれ」
「え・・・・・・・」
「じゃあ、誰のかわからない・・・・?」
「つか置いたのは誰なんだろう」
「・・・・・・・男じゃねーよな」
「・・・・・・女だよな」
「花井、来た時部室のカギ開いてた?」
「開いてたぜ?」
「でも花井が一番最初に来たんだろ?」
「のはず、なんだけど」
「でももうあったってことは、その前に誰かが入ったと」
「その誰かが部員の1人に贈ろうとして・・・・?」

この時点で一同は一斉にドリームした。
かわいい女子がもしかしてひょっとして自分のために。

と桃色の想像にそれぞれがだらしなく顔を緩めながら、言葉は一応平静を装ってみたりする。

「でもそれなら、渡したい人間の名前とか書いておかないか普通?」
「どっかにあんじゃね?」
「いや見えるところには何もないぜ」
「もしかしてマネジじゃない?」
「全員にって意味で?」
「そうそう」
「うーん、ありそうだけど」
「でも個人宛てかも」
「中に名前書いてないかなあ?」
「ちょっと開けてみる?」
「・・・・・まずくないかそれ?」
「だってこのままじゃわかんねーじゃん!」
「そうだよなあ」

にわかに 「とりあえず開けてみよう」 という空気になった。
誰かがごくり、と喉を鳴らした。
暗黙の了解のうちに水谷が開けようと箱に手を伸ばした、 ところで。

「おーっす!!!」

田島が入ってきた。 箱を見るなりぱっと目が輝いた。
続いて水谷の手の位置に目ざとく気付いて。

「それ、開けちゃダメだぞ?」
「え?」
「でもこれ、誰宛てのかわかんないんだよ」
「オレ知ってる」
「え? 誰?」
「教えない」
「えーなんでだよ?!」
「どうせもうすぐわかるよ!」

断言しながら田島はにこにこと楽しそうだ。
どうやら何か知っているようだと気付きながら一同は少なからず内心で肩を落とした。
田島の言い様からすると、どうも自分は蚊帳の外らしい。

そのうち沖と西広も来てその後三橋が入ってきた時、田島の笑顔が濃くなった。
でも挨拶した三橋が箱に目を留めた瞬間の表情を見て、田島の顔が曇った。
声を潜めて三橋に確認する。

「あれ、おまえだよな?」
「へ?」
「・・・・・・・・もしかして、違う?」
「オレ、じゃない、よ・・・・・・」
「えっ」

田島はきょとんとした。 てっきり三橋が阿部のために作ったケーキかと。

「じゃあこれ、誰んだ?」

先刻とは真逆な田島の疑問の言葉に、一同はまたそれぞれに気持ちを昂ぶらせた。
よくわからないけど、田島は勘違いをしていたらしい。
では自分が贈られた物、という可能性もまだ捨て切れない。
全員の目の色が僅かに変わった。

一方三橋は青ざめた。
結局自分はケーキを作れなかった。
前もって母親に頼んでおいたにも拘わらず
前日に母親に急な仕事が入ったために作れなかったのだ。
せめてもと朝一番にコンビニで買ったチョコを鞄に忍ばせながら
「阿部くんは立派な本命チョコをたくさん貰う、だろうに」
と泣きそうな心境だったのだ。
目の前の大きなチョコレートケーキらしき箱が、もしも阿部に贈られた物だったら。

(オレもう ダメ、だ・・・・・・・・)

そんな三橋の焦りと悲嘆をよそに、一同は再び同じ疑問に直面した。

一体誰が貰うべきものなのか。

「やっぱとりあえず中を見てみないか?」
「カードとか入ってるかもしんないしな」
「でもそれまで見るのはまずくない? プライバシーとか」
「ケーキに名前が書いてあるかも」
「書いてなかったらどーすんだ」
「とにかくさ!」

仕切ったのは今度は田島だった。

「見てから悩もうぜ?」

その言葉が合図のようになった。
異論を唱える者は誰もいない。
三橋を除く全員が抑えられない期待と好奇心で、心持ち目を輝かせながら
田島の手が包装を取り除いていくのをどきどきしながら見守った。
田島にしては丁寧に剥がしていくのは、彼なりの送り主への気遣いだろう。
皆が固唾を飲んで注視する中、田島は慎重にゆっくりと蓋を持ち上げた。
それにつれて、中身が次第に明らかになった。
 

現れたものは、予想に違わずチョコレートケーキだった。
それも大きさから全員が推測はしていたけど、堂々たる2段だった。
ヘタするとウエディングケーキにもなりそうな勢いだ。
そして蓋が全部持ち上がり、最後に晒されたケーキの上部表面を一目見るなり。

一同は悟った。

己の愚かさを。

部員以外の女子が勝手に部室に入れること自体がまず変だと、
なぜ現実を見つめなかったのか。
こんなに尋常でなく大きなケーキを、恋人のためとはいえ
臆面もなく自ら作る人物とは一体どういうやつか。
そんな (ある意味) 常軌を逸した人間は滅多にいないだろうけど、
ごく身近に1人、存在することをよく知っていたはずではないか。
少し冷静に考えればわかることに気付かなかったのは現実から目を逸らしていたことに加えて、
やはりどこかでドリームしたかったのかもしれない。

一番大きな文字はもちろん 「三橋へ」 だった。
「くん」 が抜けている時点でもう確認するまでもない贈り主の名前も
その下にちゃんと明記されていた。 でかでかと間違えようもなく。

青から一転して、みるみる茹ったタコと化した三橋と
再び笑顔になった田島以外の全員が、空ろな目を空に彷徨わせた。
誰も言葉を発せず、部室の中にはしんとした静寂が落ちた。
その静寂は勢いよく開かれたドアの音によってかき消された。

「あ?! なに勝手に開けてんだよ?!!!」

怒声を発した男がすでに着替えを終えていることももちろん何の不思議もない。
いの一番に来て箱を置いた後、大方待ちくたびれてグラ整でもしていたのだろう。

「「「「「「「悪かったな・・・・・・」」」」」」」

一同のトーンの落ちた声のあまりの暗さに、阿部は少し怯んだ。
同時にその場に三橋がいることに気付いて内心で慌てながらも
贈る本人がいたならまあいいかと思いなおした。
少々予定とは違ったけどこの際構わないことにする。

「三橋、これやる!」
「え、 あの」
「オレの気持ちだ!!」
「え、 オレ あの」
「受け取ってくれ!!!」
「・・・・・・・・・・・・。」

とうとう三橋は泣き出した。
三橋にしてみれば。
もったいなくて嬉しくて幸福で、かつ自己嫌悪で消え入りたいくらいの心境だったのだが。
阿部は面白いくらいにうろたえた。

「な、何で泣くんだ三橋?!」
「ひっく」
「おまえ、ケーキ好きだろ?!」
「・・・・・ん・・・・・・」
「昨日徹夜して作ったんだぜ?」
「・・・・・・・・・。」
「味はその、わかんねーけど」
「・・・・・べく・・・・」
「なに?」
「・・・・・・りがと・・・・・・」
「うん」
「・・・・・・・嬉し・・・・・・」
「三橋・・・・・・・・・」
「お、お、オレも ほんとは、 ひっく」
「なに?」
「・・・・ケーキ、 作ろうと、 思って」
「・・・・・・そうなのか?」
「う、 うん」
「ふーん・・・・・・」
「で でも ダメ で」
「いいよ」
「ち、ちっちゃいの しか 買えなくて」
「買ってくれたんだ?」
「でも、 全然」
「いいよ何でも」
「・・・・・・・う・・・・・」
「おまえがオレにくれる物なら何だって」
「・・・・・・阿部く・・・・・・・」
「その気持ちだけですげー嬉しい」

ごほん! とそこで花井が大きく咳払いした。
依然として空ろな目のままの面々を横目で見ながら、妙に冷静な口調で言った。

「あのさ、阿部」
「なんだよ?」
「そのケーキ、冷蔵庫に入れないとまずいんじゃねーかな」
「えっ」
「生クリームだろ?」
「うん」
「放課後までここに置いとくのは、いくらこの季節でも無理だよ」
「それもそうだな・・・・・・・」

しばし沈黙が落ちた。

「じゃあ今皆で食べよう」 と誰も言わないのは
もちろん、阿部が承諾するはずがないとわかっているからである。

「じゃあ数学準備室の冷蔵庫に」
「そんなでかいの入るかよ」

再びの花井の指摘に阿部は、平然と言った。

「じゃ、今から三橋んちに届ける」
「「「「えっ」」」」

とまどったような声は花井じゃなく、三橋と他の数人から上がった。
今から朝練なのだ。 当然サボることになる。
それを一番咎めそうな花井は、しかしむしろ淡々と言った。

「それがいいかもな」
「そうする」
「え、 あのでも」

口を挟んだのは三橋だった。

「今、家に誰もいない、から阿部くん、入れないよ・・・・・・・」
「じゃあおまえも来い」
「へ」
「カギが要るだろが!」

カギだけ三橋に借りればいいんじゃないの?  なんてだーれも言わない。
皆まだどこか呆けながら、ぼんやりと見守っている。

「じゃ、そんなわけでよろしく!」

爽やかな笑顔で言い放った阿部がケーキの箱と三橋を引っ掴んで
部室から消えた後で、栄口は我に返った。 続いて気付いた。
バッテリー不在の理由を監督に告げるのは花井の仕事になるだろうこの場合。
それは決して楽しい作業じゃないはずだ。
でも帰るように仕向けたのはむしろ花井本人だ。

「何で墓穴掘るようなこと言ったの? 花井」
「・・・・・・・耐えられなかったんだ・・・・・・」
「え?」
「空気がどんどんピンクになるのが」
「・・・・・・・・・あぁ」
「それにあのまま放っといたらどうなるか想像したら」

なるほど、と納得しながら栄口は無言で花井の肩を叩いた。

「でもオレ、びっくりした」

感心したように言ったのは沖である。

「なんで?」
「え、なんか、あの2人って贈るなら三橋からってイメージがあって」
「あー・・・・・確かに」
「でも、あの阿部だから」
「そう、阿部だもんな」
「『好きな人間にチョコあげて何がおかしい』 てとこだな」
「そうだな、阿部だからな・・・・・・」

妙な納得の仕方をする一同は少し疲れた顔になっている。
その時、全員が心で思いながら黙っていた懸念事項を水谷がぼそりと口に出した。

「あいつら、授業に間に合うように戻ってくるかなあ」

対する返答はなかった。


そして全員が予想したとおり、もちろん戻ってこなかったのである。




















                                       ハッピー・バレンタイン 了
オマケ

                                             SSTOPへ







                                                    阿部から贈らせたくて書いた話。