ファンファーレ −5



  SIDE MIHASHI



帰るために自転車を漕ぎながら、三橋は溜めていた息を大きく吐いた。
息とともに目から余計な水分まで出そうになったのは堪えた。

(オレ、頑張れた・・・・・・・)

家を辞す瞬間まで笑っていることができた。
不審な態度はしなかったはずだ。
やっと言えた、という安堵以外の感情は絶対出さないように
細心の注意を払ったつもりだった。

その割には後半の阿部の様子が上の空だったのが少し気になったけど、
怒ったりいぶかしんだりはしていなかった、と思う。
きっと何か別のことに気を取られていたのだろう。
自分などいっしょにいて楽しい人間じゃないとはわかっているから
そんなことでは傷つかない。

ずきずきと疼く痛みは別の理由によるものだ。
1人になると抑え付けていた感情が勢いよく上がってきて、
どれだけテンパっていたか今になって自覚した。
阿部の前では我慢できた自分をこっそりと褒めてやる。

(言えて良かった・・・・・)

肩の荷が下りたような安堵感も確かにある。
早く言わないと、としばらく前から考えていたそれは、引退後すぐに出てきたわけじゃない。
もしかしたら無意識に目を逸らしていたのかもしれないが、
はっきりと考えたのは秋も過ぎる頃だった。
今までずるずると言えずにきたのは、どこかで逃げていたからだ。

けれどもうすぐ卒業、という事実は年が明けてから一気に現実味を帯びて、
その頃から三橋は1日に数回沈むのが常になっていた。
考えることはいつも同じだった。

(もうすぐ、阿部くんとも お別れ、だな)

寂しかった。 正直に言えば寂しいというレベルではなかったけれど、
三橋はその度に自分に言い聞かせた。

(わかってたこと じゃないか)

思うそばから落ち込んでいくのは、どうすることもできなかった。
もう簡単に会えなくなるだけでもつらいのに、三橋の憂鬱はそれだけではなかったからだ。

(早く言わなきゃ・・・・・・)



そもそものきっかけはまったくの偶然で、近くにいたクラスの女子の会話を
聞いてしまったことだった。
潜めた声でのそのやり取りが聞こえたのは、隣の席だったからで
その時三橋は机に突っ伏していたので寝ていると思われたのだろう。
実際その直前までは寝こけていたのだが。

「卒業だから頑張ろうと思って」
「コクるんだ?」
「ダメもとだけど」
「そっかあ」
「その前に受験だー」
「同じトコ受けないの?」
「レベル違うもん」

耳に入ってきた内容に少し目が冴えた。
プライベートを盗み聞きしてしまったことに後ろめたくなる一方で
ああそうか、と納得した。
これでお別れと落ち込んでいるのは自分だけではない。
想う相手がいる人間が玉砕覚悟で最後に言う、というのはありそうなことだった。
でも自分がそれをする発想はなかった。 論外だからだ。

(オレには、関係ないや・・・・)

そう思って寝直そうとしたところで、ハタと気付いた。

(阿部くんは 誰かに言われるかも、しれない・・・・)

あるいは阿部のほうから言いたい相手がいるかもしれない。
見ている限りそんな様子は皆無だが、いても不思議じゃない。
今まで彼女ができなかったことのほうがむしろ不思議で、
それは自分との約束のせいかもしれないのだ。 もしそうなら。

(もういいのに・・・・・・)

阿部が今まで言葉どおり、決まった相手を作らずに
ひたすら野球に没頭してくれたことを思った。
約束と呼ぶようなものではなかったけれど、三橋にとっては
この上なく大事な拠りどころだったそれを最後まで律儀に守ってくれた。

(幸せだった、なあ)

心からそう思った。 過ぎた幸せだった。


その時はそこまで考えただけで終わった。
けれど秋の終わり頃のその一件が、その後も三橋の中から消えなかったのは
元々阿部の宣言が、嬉しいと同時にいつもどこかで後ろめたかったせいだろう。
消えないどころか、最初は時折掠める程度だったのが
時間が経つにつれ思い出す回数が増えていった。
その度に三橋は罪悪感を覚えた。

阿部は今でも守っているのかもしれない。
引退するまでと漠然と思っていたけれど、期限まで決めたわけじゃない。
きちんとした約束でもなかったから気にしなくていいのかもしれないが、
曖昧なために尚更縛っているのでは、と一度思ってしまったら
それがまた頭から出ていってくれない。

(オレのせいで・・・・・・)

それは許せないことだった。 自分を許せない。
嬉しいなんて、思っちゃいけない。
阿部に好きな相手がいれば言うべきだし、それがなくても
阿部を想う誰かが最後のチャンス、と思い詰めているかもしれない
その機会まで潰す権利など自分にはない。

(彼女作っていいよって、言ってあげなきゃ・・・・・)

言葉にすると、おこがましいような気がした。
恩着せがましくなく自然に伝えるにはどう言えばいいかと考えた。
伝えたいことはそれだけじゃなく。

(ちゃんと、お礼も言いたい・・・・・・)

あれこれと考えながらも、実際に言える自信はなかった。
だからといって罪悪感と義務感は消えず、年が明けてから
田島経由で他人の恋愛の噂を聞くことが増えたのも罪悪感に拍車をかけた。
早く解放してあげようという焦りにじわじわと苛まれながら今日に至ってしまった。


いっしょに帰ろうと誘われた時チャンスだと思ったのに
きっかけが掴めなくて内心で焦っていた。
本当は言いたくないのかと葛藤やら自己嫌悪まで湧いたところで家に誘われて、
迷いが消えた。
絶対言う、と力んだせいで不自然な流れになった感もあるけど何しろ余裕がなかった。

(とにかく、言えたし)

それで良しとしようと三橋は満足した。
卒業までに阿部に恋人ができたら笑って祝福しようとも決めている。
想像すると鼻の奥がつんとするのをやり過ごすのも、もう慣れた作業だ。

(わかってたから 大丈夫)

大丈夫にならなければいけない。
会えているうちはまだ幸せなのだ。
もうすぐそれすらままならなくなることを思えば。

(卒業してからだって また会える、よね)

友達だもん、 と付け加える。
空を見上げるといつのまにか暮れた中にぽかりと月が浮かんでいた。
いつだったか並んで月を見た夜をふいに思い出した。

阿部との思い出はたくさんある。
野球とは関係ないものも少なくなく、こんなふうに何かにつけ思い出すのかもしれない。
それはきっと幸せなことなのだ。
ぎゅうと絞られるような痛みを伴うのは最初のうちだけだろう。

阿部の家からの帰路の風景も見納めかもしれない、とふと思って
漕ぐ足を少し緩めた。
何度か通った道は誰かといっしょのこともあれば、1人の時もあった。
何も考えなくても迷わないのは、それだけ回数を重ねたからだ。

(・・・・・もう最後、かもしれない)

速度を落としても、風景はどんどん後ろに流れていく。 まるで象徴のように。

ぽつりと落ちた雫はすぐに風に散って誰にも見られていない。
自分だって見てないから、なかったことにできる。
その証拠にそれ以上落ちるものなんて、ない。  だから。

(オレは、大丈夫)

何度もそう言い聞かせながら、三橋はひたすら自転車を漕ぎ続けた。
前に向かって。













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