月の下に2人





阿部はひたすら手を動かしていた。

難点なのは大事な防具の手入れは慣れた作業であるため、
何も考えなくても手が動く。 つまり頭のほうがヒマなのだ。
そのせいで本日一番印象に残った、風呂場での出来事が
蘇ってしまうのはどうしようもない。
追い払っては戻ってくる、を繰り返した挙句諦めて、
手入れをしながらそもそもの発端からなぞってみる。




それが起きる前、阿部はのぼせ気味で湯に浸かりながら
壁に描かれた富士山を一心に睨みつけていた。
昔ながらの銭湯の壁といえば、富士山と相場が決まっているのは何故だろう。
実物の富士が見える露天風呂は、それはさぞや気持ちいいかもしれない、が
だからというのは発想が単純すぎやしないか。

などと巡る思考は阿部にとって心の底からどうでもいいことだった。
でも考えないわけにはいかないのだ。
「気を紛らせる」  作業に勤しんでいないと、
特定のある人物ばかりガン見してしまいそうで、
しかもその人物のある部分に主に視線が向かいそうで
それだけでも充分危ない人になる自覚くらいはある。

さらに万が一己の体が宜しくない状態になったらどうするのだ。
野球部同期全員が揃っているこの場で
そんな恥ずかしいわ情けないわ危険だわな事態は死んでも避けたい以上
壁の絵でも眺めて、無駄な考察に励むくらいしか手がないのである。
もう洗い終わっているのだからとっとと出ればいいのだが、
そうできないのは三橋が気になるからだ。
気になるからといって見ることもできず、何をどうするわけでもない。
バカみたいである。 みたいは余計だ。

そんな阿部の密かなため息だの奮闘だのを知る由もない想い人は、
もう1人の天然仲間と何やら楽しそうだった。

「三橋ー 背中洗いっこしようぜー!」
「うひ」

やめろーーーーーーっ と叫びたくても叫べない阿部は
下唇をぎゅっと噛んで耐え、ちらりとそっちを盗み見た。
早くも三橋の背中を擦り始めた田島の手元を注視して
直には触ってないな、よしよしと一応安心してからまた
急いで富士山を睨み付ける。 情けないことこの上ない。

しかしそこまではそれでも平和だった。
はしゃぎながらお互いの背中を流しっこした天然どもはその後
あろうことか洗い場で鬼ごっこを始めた。
滑ったらどーすんだこのバカ! と胸の内で怒鳴ったとほぼ同時に
流石にキャプテンからたしなめの言葉が飛んだ。

「おまえら、いい加減にしろよ。 危ないだろ?!」

はーい、 と素直な返事が田島から返り、
よし、花井偉い! と1人頷いたところで水谷が叫んだ。

「三橋!」

ばっと顔を向ければ目に飛び込んだのは三橋の滑る姿だった。
それも後ろにのけぞる、という最悪な滑り方で
踏みとどまる努力すらできず三橋はそのまま後頭部から転倒した。
離れた湯船に浸かっていた阿部に助ける術があるはずもなく。

見るやざばりと、湯から飛び出した。
倒れたまま動かない姿に一瞬で血が逆流した。

(・・・・・脳震盪か、それとも)

もっと重篤な何かだったら等々の恐怖が目まぐるしく過ぎって
傍らに膝をつきながら、それが目に入った時も
疚しい気分にはカケラもならなかった。 それくらい真剣に焦っていた。

けれど瞬間嫉妬にも似た強い感情が湧いたのも確かだった。
見せたくない。 他の奴に晒したくない。
落ちていたタオルを真っ先にかけて隠してやったのは、だからほとんど反射だった。

「三橋、おい!!」

呼びかけに反応しないことに本格的に青褪めた。
そんなだったから、その後三橋が目を開けて
「いたた」 とつぶやきながらのっそりと起き上がった時
ぶつりと何かが切れる音を、阿部は聞いた。 凄まじい勢いで反動が来た。

「・・・・・・・こ、この」
「あ、阿部くん・・・・?」

そこで初めて気付いたようにきょとんとした様子で
自分に向いた童顔を鬼の形相で睨み付けてから。

「この、バカヤロウ!!!!!!」

ただでさえ反響しやすい浴室いっぱいに、怒声がわんわんと響き渡ったのである。





そこまで回想して、はあっとため息が漏れた。
その時の自分に対してというより、今の自分に対してだ。
何となればさっきからしつこく浮かぶのは、
ほんのり桃色に染まった白い腹だの太腿だの、その他。

(・・・・・ったく、なんで)

駆け寄った時は心配しかなかった。
100%それだけで、不埒な何かなぞ微塵もなかったという自信がある。
隠したいと思ったのは事実だけど、そのために行ったわけではないし
独占欲と気遣いが半々のそれは、疚しい情動とは別種だった。
それにまじまじと凝視したわけでもない。 そんな余裕はなかった。
はずなのに、今気を抜くと脳裏に浮かぶのがこれとは一体どういうわけだ。

今だけじゃなく、大丈夫だったと安心して、
怒りのままに我を忘れて怒鳴りつけてしまった直後に、もう意識した。
至近距離にある肌理の細かそうな肌が急に生々しく感じられて、
そんな自分に焦りと嫌悪感が同時に湧いた。
結果、必死の謝罪にもちゃんと対応してやれず、逃げた。

さらに悪いことに目に焼き付いた白い腹だの太腿だのその他、が
頭の中に勝手に再現されて、しかも怪しく動いたりする。
これはいわゆる妄想ってやつじゃ、と認識した途端にびっくりして
だからといって止めることもできず、その後まともに三橋の顔を見られない。

三橋が泣きそうな顔で時折自分を見ているのも気付いていた。
容赦なく怒鳴った自覚はあるし、もう怒ってないと伝えてやりたいのに
近寄ることもできないくらいに脳内がピンクな己にほとほと愛想が尽きる。
傍からは無視しているように見えただろう。
三橋がどう思ったかなんて1足す1よりも簡単にわかる。
今のうちに平常心を取り戻して、遅くとも明日の朝には
普通に接してやらないとマズい。

そう言い聞かせたそばから、またしても浮かぶ白い腹と太腿、その他。

「・・・・ちっ」

無意識の舌打ちは、あくまでも自分に対してだったのだが。

「ひっ」

直後に聞こえた声に、ぎょっとして顔を上げた。
見るまでもなくわかっていたその小さな悲鳴の主は
座っている縁側から少し離れたところで、怯えた顔で突っ立っていた。

(何だってこう間が悪いんだ・・・・・!)

焦ったものの、素早く気を取り直してフォローするべく口を開く。

「あー、違うから」

言ってから何が違うんだ、と自分で突っ込んだ。 言葉が足りてない。
それについては過去に何度も失敗したせいで、今ではある程度わかるようになった。
舌打ちが自分に対するものだと三橋は誤解したと思うのだが、
説明し直すのも面倒で、阿部は話題を変える方法を選んだ。
要は怒ってないと伝わればいいのだ。

「・・・・・風呂で打ったとこさ」
「え」
「大丈夫か? 痛んだりしないか?」
「あ、うん。 コブになった、けど平気」

ホッとしたように頷く顔を見て阿部も内心でホッとした。
近くにいるほうが妄想が出ないことにも気付いた。
防具に目を戻しながら、もっと傍に来ないかなと願ったけれど
それはないだろう、とどこかで諦めていた。
さんざん怯えさせた自覚くらいある。

「阿部くん、ごめんなさい・・・・・」
「いいけどさ、・・・・・・寿命縮んだぜオレ」
「う、 ごめん・・・・」
「オレも怒鳴りすぎたよ、悪かったな」

ぶんぶん、と顔が振られたのが気配だけで分かって小さく笑った。
三橋は謝りに来たのだろう。
自分の態度がそうさせたんだ、と今さら自己嫌悪が湧く。
でも一応仲直りらしい話ができたことに安堵した。

肩の荷が下りた気分になると、傍に来てほしい気持ちがいっそう強まった。
感情とは逆に阿部は 「じゃあオレ、戻るね」 という次の言葉を予想して
防具に専念する振りをしながらそれを待った。 
安心のあまり邪な何かがまたうっかり浮かんだらヤバいとも思った。
半分は諦めるための口実だったけれど。

「満月 だね」

思いがけなく近くから聞こえた声に驚いて顔を上げると
いつのまにか寄ってきていた三橋が隣に腰を下ろした。
思わず距離を目で計ってしまった。 10センチ、と声に出さずにつぶやいた。
傍に来てくれただけでなく、最初の頃は考えられなかった距離は
それだけ馴染んだからか、あるいは一度本人に頼まれて密着したからか。
兄弟に憧れて、というそれはあれ以来頼まれたことはないけれど、
感触は鮮明に覚えている。

「きれいだね」
「へ」

間の抜けた声が出た後、月のことだと気付いて夜空を見上げる。

「うん」

簡潔に返しながら鼓動が速まった。
何か話したいと思うものの何も浮かばず、手入れに専念する振りをする。
同じところを拭いていることに気付いて
ああもう、とついたため息ももちろん表には出さない。
もくもくと続けていても三橋が去る気配がないことが単純に嬉しくて
一人でこっそりと浮かれていると、ぽつりと三橋が言った。

「いつもありがとう」
「・・・・・・え」
「あの、心配してくれて」

手を止めて顔を見た。
三橋はほんのりと赤くなりながら目はまだ空を見上げていた。
その横顔に見惚れた。
先刻までの不埒な自分を密かに恥じてから、ふいに浮かんだ。

壊したくない。

いつも漠然と底にあるそれは、思いがけない強さで胸を圧迫した。
時間をかけて築いてきたものが、確かにある。
いろいろなことがあったけど、ここまで来れた。
たくさん回り道したりして普通より大変だったのは
自分だけでなく三橋にとっても簡単な事ではなかったからだ。

「・・・・心配してるよ、いつも」
「ごめん なさい」
「いいよ別に」
「でも」
「でもって言うなよ。 女房なんだから当然だろ?」

三橋が阿部を見て、笑った。
花が咲いたみたいだと、阿部は思った。
最初の頃は見られなかったその笑顔が、何より大事なのだ。
気持ちを告げたら失うかもしれない。
その時にこの顔が見られたらどんなに幸せだろう。

手入れの続きに戻った阿部の傍に三橋はそのままい続けた。
特に何を話すでもなく、2人して黙って座っていた。
穏やかな空気に心が凪いでいく。
温かさとか愛しさとか切なさとか親愛の情とか自己嫌悪とか
様々な感情や葛藤が混じり合って溶けて、いつもは持て余すそれらすら
何故か心地良く感じた。

好きだよ、 と心だけでつぶやいた。
たとえこの先言えなくても。



いつか言葉にして伝える日が来ても来なくても
今のこの瞬間をきっとずっと、いつまでも覚えているだろうなと
ふとそんな予感が、阿部はした。















                                        月の下に2人 了

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