その安心をくれるのはもう





その提案が阿部くんの気遣いなのは、熱のせいで朦朧とした頭でもすぐにわかった。

「おまえのお母さんに来て貰うか・・・・・・」

悪いからいい、と咄嗟に思いながら それも仕方ないかも、
というくらいに体温計の示した数値が高くて自分でもびっくりした。
でも阿部くんの心配の中に何か 「要らない気遣い」 が混ざっているように思えたのは
その後に付け加えられた一言のせいだ。

「おまえだって、たまには誰かにめいっぱい甘えたいだろ?」

内容に引っ掛かった だけでなく、その時の阿部くんの目が
ゆらゆらと不自然に揺れたような気が、した。

でもわからない。 考え過ぎかもしれないし目の錯覚ということだってある。
ただでさえ回転の遅い頭が、熱のせいかいつもよりもっと回らない。
「んー」 と生返事をしたような気がするけど、それすら定かでない。
そのままふっと眠ってしまって、次に起きたら玄関のほうから声が聞こえた。
声は2つで、会話していた。
2つともよく知っている声で、2つともそれぞれに大好きな声だ。

「じゃあ、お願いします。 すみません」
「いいのよー 親なんだから当たり前よう」
「・・・・・・あいつも喜ぶと思います」

誤解なのに、 と夢うつつで思った。
やっぱり誤解されているような気がする。
そうだったら、そうさせているのはオレなんだ。

「・・・時くらいには帰ってきますので」
「ゆっくりでいいわよ? いってらっしゃい」

阿部くんが出かけた気配に、眠気を掃ってから努力して起き上がった。
今、家の中にはお母さんだけがいるんだろう。
オレの看病のために来てくれた。  オレの熱が高いのに、
どうしても外せない用事で出なければならない阿部くんが心配して呼んでくれた。
でも阿部くんの気遣いは、それだけじゃ きっとない。

すうっと気分が沈んだところでドアが開いて、お母さんの顔が覗いた。

「あら、起きたの? 廉」
「あ、うん。 今」
「大分ひどそうね」
「あの ごめんね、お母さん。 今日も仕事あったんでしょ?」
「大丈夫よー1日くらい」

お母さんは明るく続けた。

「今日はいろいろやったげるからね!」
「あ、ありがとう・・・・・・・」
「お腹すいてない? お粥食べられる?」
「ううん、いい・・・・・・・」
「そう? でも一応作るわね。 後で食べられるように」
「うん」
「ちゃんと寝てなさいよ?」

言い残してお母さんはキッチンのほうに行ってしまった。
言われたこととは逆にオレは寝られなくなった。 
自分でもよくわからない理由で落ち着かなくて、何度も寝返りを打つ。

そのうちに洗濯機の回る音がし始めた。 何となく気恥ずかしい。
阿部くんの下着とかも混ざっているはず、だ。
別に恥ずかしいことじゃないとわかるけど、恥ずかしい。
1人で赤面していると、次に掃除機の音が始まった。
何か、変なものは置いてなかったよね、 とベッドの中で悶々と心配する。
阿部くんは抜かりないから、大丈夫だと思うけど。

あれこれやってくれているらしい合間にお母さんが時折様子を見に来る。
オレはその度に寝たフリをした。 心配かけたくなかったから。

いろいろな音は長い間続いて、オレは結局その間一睡もできなかった。
眠って少しでも良くなることがお母さんにとっても一番の親孝行だとわかっていても
落ち着かない。  それにせっかく来てくれたのに、と思うとやっぱり申し訳なくて、
音が全部止んだところでダルい体を起こしてベッドから下りた。
居間兼キッチンに入ると、きちんと片付いていて物の置き場所も微妙に変わっていて
何だか違う部屋みたいだった。

「起きて大丈夫なの? 廉?」

お母さんは驚いたように言いながら振り返った。
済んだと思ったらそれは勘違いで、今はキッチンに立って何か作ってくれているようだった。
本当にたくさん、やってくれているんだ  と思ったら、
ありがたいような申し訳ないような、複雑な気分が大きくなる。

「うん、大分いい よ」
「お粥食べられそう?」
「あとで、食べる」
「そう?」

阿部くんが帰ってから食べる。

とは言わずにオレはお母さんのためにお茶を用意し始めた。
だって仕事を休んで来てくれたのに、こんなにいっぱいやってくれているのに、
寝てばかりじゃ悪い。  せめてこれくらい、という気持ちだったけど、
気付いたお母さんはびっくりしたようだった。

「いいのにそんなこと」
「あ、これくらいは平気・・・・・・」

少しだけ嘘をつく。
「そうなの?」 とあっさり言ってから、お母さんは手早く作業を終えた。
それから嬉しそうに椅子に座ってくれたのでホっとした。
オレも座ってお母さんとお茶を飲みながら話す。 
他愛ない話に、ぼうっとしながらも相槌を打つ。
楽しそうなお母さんを見るのはオレだって嬉しい。 元気そうなことに安心もする、けど。

「ところで廉、彼女とかできたの?」

あまり嬉しくないことを聞かれた。
嬉しくないのは胸が痛むから。 ごめんね、と心でつぶやきながら
「まだ、だよー」 とオレは頑張って笑顔を作る。
顔が引き攣ってないといいんだけど。

「彼女ができたら、こんなことも全部やってもらえるわよお?」

お母さんが笑う。 オレも笑う。
阿部くんが全部、やってくれるよ、 という言葉を呑み込んだのに理由はない。
オレだけが知っている阿部くんを、教えたくなかったのかもしれない。

ふいに泣きたくなった。
何でなのかわからない。 熱のせいかもしれない。

阿部くんが今ここにいれば いいのに。
早く阿部くんの顔を見たい。 そして。

(・・・・・・・甘え たい な)

しみじみとそう思った。
それは本音だ。 オレにとっては当たり前のことなのに。

阿部くんは 全然わかってない。
でもそうさせたのは オレが悪いんだ。

改めてそう思ったら胸がずきんとして、それから軽い眩暈がした。
眩暈はきっと熱のせいだ。 朝より上がっているような気がする。
体がじんじんと痛くて、お母さんの話を聞くのだけでも大変になってきた。
でもお母さんが心配するから、オレは平気な振りをする。

体がつらい。 本当はつらいって言いたい。
正直にそれを言える人の顔がまた浮かんだ。

「阿部くんは、恋人いそうねぇ」
「・・・・・・・いない、みたい」
「あらそうなの?」
「・・・・・・・うん」

何でもない顔を作って頷きながら願う。

(早く・・・・・・・・・)

早く帰ってきてほしい、 と痛いくらいに思ったそのタイミングでチャイムの音が響いた。 
奇跡みたいに。
お母さんが時計を見て 「あらもうこんな時間」 とつぶやきながら立ち上がった。

(良かった・・・・・・・・・)

阿部くんが帰ってきた。
鍵を開けに行くお母さんの背中を見ながら、オレは立てない。
体が重くて立つのが億劫なせいだけど、気持ちは急速に楽になっていく。

(帰ってきて くれた・・・・・・・・)

だからもう大丈夫。 

「おかえりなさい」
「あいつ、どうですか?」
「今は起きてるのよ。少しはいいみたい」
「そうですか・・・・・・」
「お粥はまだ食べてないんだけど」
「いろいろと有難うございました」

遠くもない玄関での会話が霞んで聞こえる。 
早く、 とまた思ったところでお母さんが戻ってきて上着を着た。

「じゃあ私は帰るわね? 廉」
「うん! ありがとうお母さん」

心からそう言った。
ちゃんとしっかりと言えたし、ちゃんと笑えたと思う。
玄関のドアが閉まる音まで確認してから、ああ良かった、とオレは安心して
テーブルに突っ伏した。  もう頑張らなくてもいいから。

「・・・・・・三橋?」

阿部くんの訝しげな声がする。
起きなきゃ、と思いながら動けない。 動きたくない。 目も開けられない。
手が頭にかかって顔を少し持ち上げられた、と思ったら額に手が当てられた。
帰ったばかりのせいか、ひんやりしてて気持ちがいい。

「おま・・・・・・・・熱上がってんじゃねーのか??!!」

半分焦って半分怒ってる阿部くんの声がすごく嬉しい。 安心する。
これでやっと眠れる。
でもベッドまで歩く元気がない。
悪い、 とつい思っちゃう習慣を今日は捨てることにする。
今日は思わない。 だって体がつらいんだ。 すごく。

「寝てなきゃダメだろーがおまえは何で、」
「阿部くん、運んで・・・・・・・・」
「えっ・・・・・・・・・・・」

間があった。
今阿部くんはどんな顔をしているんだろう。
びっくりしているのかな。 呆れてるかな。
でもきっと怒ってはいない。 それがわかるから安心して待つ。

阿部くんの手が背中にかかってそれから足のほうにもかかったので、
阿部くんがやりやすいように体勢を変えると易々と体が浮いた。 気持ちがいい。
いいトシした男がお姫様抱っこなんて恥ずかしいけど、今日くらいはいいんだ。

そっとベッドに下ろされる。
目を瞑ったままぐたっとしているとちゃんと上掛けも掛けてもらえる。
首の周りまで隙間なく包んでもらえて、また気持ちがいい。
柔らかい布団といっしょに幸福な安心感にも包まれる。 
目に見えないそれは、阿部くんだけがくれるものだ。 

意識が散漫になっていくのを感じながら、気力を振り絞った。
眠りに落ちる前に頑張って目を開けた。
求めた顔がすぐそばにあって、ホっとした。 言いたいことがあったから。

でも何て言えばいいんだろう、と迷っているうちに阿部くんが言った。
阿部くんは心配そうな顔をしていた。

「おばさん、いっぱいやってくれたんだな」
「うん・・・・・」
「おまえも、久し振りに甘えられたんじゃねえ?」
「ううん・・・・・・・・」
「え」

阿部くんの顔がびっくりした。 やっぱり全然わかってない。

「オレ、 落ち着かなかった」
「え」
「だから 眠れ なかった」

阿部くんの目がもっと丸くなった。 口もぽかんと開いている。
それが可笑しくて、少し切ない。
本当はあれこれ文句だって言いたい。
阿部くんの服とか物とかに触られるのイヤだった。 気も遣った。
でもそれは、お母さんに悪い。
お母さんはオレと阿部くんのためにやってくれたんだし、助かった。
それで感謝したのは本当だし、元気そうで良かったと思ったのも本当だ。
お母さんは特別な人だし、大好きだ。 けど。

今オレに一番安心感をくれて甘えさせてくれるのは。

「・・・・・オレ、ちょっと眠る ね」
「・・・・・・・うん」
「阿部くん、今日はもうどこにも行かない よね?」
「うん」
「後でね、おかゆ 食べさせてね」
「え・・・・・・・・・・・」

オレは満足して目を瞑った。
言えなかった言葉がまるで伝わったかのように
阿部くんの顔がみるみる赤くなったのを、確認できたから。

どうか 伝わっていますように。

ぼんやり願ってから、ふいに思い直した。 強い気持ちだった。
この安心がどんなにかけがえのない、貴重なものかを、オレは知っている。
だから起きたらちゃんと言おう。 恥ずかしくてもちゃんと言おう。



阿部くん、

オレが今、一番甘えられるのはね 

この絶対の安心感はね 今はもう阿部くんだけが くれるんだ。



そう言った時の阿部くんの顔を想像しながら、オレは安心して眠りに落ちる。

目覚めた時に阿部くんがいる、その幸福感に包まれながら 幸福な眠りに。
















                                      その安心をくれるのはもう 了

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