晴れのち雨





「もうすぐ梅雨だな」

阿部が教室の窓から外を眺めながら、ぼそっとそうつぶやいた時、
花井は聞こえなかったフリをしようかと思った。
それに今のは独り言と言えないこともない。 うんきっと独り言だ、
とさっくりと流そうとしたところで

「梅雨と言えば雨だよな花井!」

今度は名前付きでつぶやかれた。
内心でげっそりしてしまったのは決して 「梅雨=雨」 に決まってんだろがアホか!
などと思ったわけではなく、話題がイヤだったとかいうわけでもなくて
(別に梅雨に恨みはないし、天気の話なんて年寄りのするもんだぜ!
 といった偏見もない)
それとは別のある問題点のせいだった。

何が問題って阿部の最近の態度というか雰囲気というかオーラというか
滲み出る何かというかぼろぼろと零れる言葉の端々というか、
とにかく 「阿部隆也」 という存在自体が普通じゃないのである。
尤もそれを言えば、前からいろいろと常軌を逸している部分
(主に 「み」 の付く人間に関することで) はあるにはあったのだが、
最近それに拍車がかかったような気がしてしょうがない。
野球にこそ影響はないものの、それ以外の場ではいちいち言動がおかしい。
良く言えば (あくまでも良く言えば) 面白い。

つまり要するにぶっちゃけて言ってしまえば、言動の大部分が
「恋する男」 のそれになっているのである。

しかしながら阿部が恋をしていたのはずっと以前からであり、
本人が自覚する前から花井は知っていたくらいだから、
もちろん昔からその傾向はあったのだ。 がしかし。
最近それがとみにひどくなった。 
何故だろう、と考えるに
田島曰く 「進展したんだよ絶対!」  となる。
「根拠は?」 と問うと 「ない!」 とソッコーで返って来る辺りで
花井はまたぐったりと脱力するわけだが、おそらく田島の推測は当たっている、とも思う。
どうやら名実ともにめでたく晴れて確固たる 「恋人」 になれたらしいのは友人として
喜んでやらなければならないのであろうが、それが原因で阿部は平たく言えば
「浮かれて」 いるのである。

浮かれた阿部くらいタチの悪いものはない、 と花井は苦々しく考えた。
それは通常ハタから見れば 「微笑ましい」 とか 「応援したくなる」 とか
そういうほのぼのした温かく美しい何かを引き起こす類のものなのであろうが、
阿部に関しては残念ながらそれだけでは済まない。

むしろ 「頼むからそれ以上突っ走らないでくれ」 とか
「少しは人の目を気にしてくれ」 とか 「おまえ大丈夫か?」 とか
つい言いそうになってしまうのをかろうじて我慢して呑み込む、 という類のものになる。

それに加えてナニをやらかすかわからない不気味さもある。
まるで土中深く埋まっていた昔の手榴弾とか、うっかり水に落として湿った爆弾とか、
ゲンミツには違うかもしれないけど、イメージとしてはそんなシロモノと化している。

そんなバクハツブツのような男ではあるけれど、唯一救いなのは
「三橋の嫌がることはしない」
という1点だけは呼吸するがごとく自然に、生真面目に守っているということだ。
それがあるために、今までもいわゆる「問題」となるような目に余る事態には一度もなっていない。
流石は恋する男である。  最も肝心な部分においては大変にまともなのであった。
とはいえ。

このように野球以外の場で 梅雨がどーたらと言い出したということは
まず確実に三橋との何かに関することに間違いはなく、
また何を言い出すのやらこの色ぼけ男は、 と花井が身構えてしまったのも
無理からぬことと言えよう。
そんな花井の心中などどこ吹く風で阿部は続けて言った。

「オレさ、傘ってあんま使わねーから」
「まぁ基本チャリだしな」

花井は諦めながら相槌を打ってやった。 美しい友情である。

「ビニール傘しか持ってなかったんだけど」
「ふぅん」
「軽いし、うっかり失くしても気楽じゃん?」
「あぁ、まぁな・・・・・」
「けど、それじゃダメだってことに気付いたんだよな!!」

何がダメなんだ、 なんてことは口に出して言ってやらない花井である。
美しい友情に翳りが見えるが気にしない。
しかしそんな控え目な抵抗など阿部は当然ものともしない。

「まず第一にビニール傘は小さい!!」
「はぁ」
「2人で入れない!!」
「はぁ」
「それに後ろから見えてしまう!!!」
「はぁ」
「傘に隠れて何かできないという由々しき問題点がある!!」

何で2人で入れないとダメなんだとか 何で見えるとダメなんだとか
傘に隠れてナニをする気なんだとか、全部花井は聞いてやらないのである。
加えて連続して 「はぁ」 しか言ってないが、もちろん阿部は気にも留めない。

「だからオレ、ちゃんとした傘を買おうと思うんだ!」
「・・・・・・・いいんじゃね?」

最後に 「はぁ」 以外の言葉を返してやったのが精一杯の友情であった。






○○○○○○

そんなことがあって数日後、阿部は自転車に傘を積んで登校した。
黒い男性用の、つまりそれなりの大きさの立派な傘だった。
花井はそれに気付いて思わず聞いてしまった。

「あれ? 今日って雨降る・・・・?」

花井がそう聞いたのはその日が梅雨とはいえ、よく晴れた気持ちのいい日だったからだ。

「さあ」
「さあって・・・・・・」
「だって梅雨じゃん!」
「はぁ」
「いつ降ってもおかしくねぇだろ?」
「・・・・・・・・。」

阿部の楽しそうな顔を見ながら、花井はこっそりとため息をついた。 同時に納得した。
朝から降っていてはダメなのだ。  それでは誰だって傘を持ってくる。
途中で降り出した日にこそ、阿部の野望は果たされる。
朝は晴れているほうがよりベターであろう。
花井は呆れながらもうっかり 「微笑ましい」 ような気持ちになってしまった。
そしてもちろん、その日は1日晴天だった。
阿部は肩を落として傘を持って帰っていった。
花井は少し同情した。
でもまぁ梅雨だし、 と続けて気楽に考えた。
阿部のかわいらしいと言えなくもない望みはいずれ叶うだろうと。

が、阿部の野望だの花井の友情だのを天気が慮ってくれるわけもなく
厳然と雨は降らなかった。
降る日は朝から盛大に降った。

降ろうが降るまいが毎日阿部は傘を持参してきた。
あまりにも毎日持ってくるんで、いつのまにか野球部全員、とまではいかないが
大半の者は阿部の健気とも言える思惑に気付いてしまった。
さらに日が経つにつれ、「晴れ のち 雨」 の天気を切望しているのは阿部だけではなくなってきた。
阿部の形相が日に日に険しくなってきたからだ。
口に出しては言わないものの、その分雰囲気に如実に出ている。

そんなに相合傘がしたいのかオマエは一体どこのオトメだと  突っ込みたい衝動を抑えるのも
疲れるし、それ以前に機嫌の悪い阿部というのは無意識に八つ当たりに走ることもあるので、
その対象となる者には堪ったもんじゃないのである。
今のところまだその段階には至ってないが、そこまでいった時にまず犠牲になるのが
水谷あたりで、その水谷は阿部の野望には気付いていないらしいところがまた涙を誘う。



そういう危うい状態だったので、ある日 朝はまあまあの良い天気だったのに
部活が始まる頃になって雨が落ち始めた時、部室にいた大部分の者が一様にホっとした顔をした。
悲しそうな顔をしたのはただ1人、三橋だけだった。
三橋ががっかりしたのは投球練習ができないからに他ならず、当然の反応と言えよう。
一方阿部は。

もちろん、ホっとしたなんて生易しいものではなかった。
目がきらきらと輝いた。 目だけでなく顔全体が輝いた。
うっかりするとスキップでもしかねない、るんるんしたオーラが全身からわかりやすく噴き出した。

(良かったな阿部・・・・・・・・・)

と生温い目で見ながら内心でつぶやいたのは、決して花井1人ではなかった。
それくらいその時の阿部は嬉しそう、かつ幸せそうだったのである。

「あー、今日はミーティングかなあ」

阿部の声はばら色の響きを帯びている。 少女漫画なら背後に花びらとかハートとかがひらひらと
飛びそうな勢いである。

「う、ん・・・・・・・・・」

対する三橋の声は明らかに落胆しているのだが、すかさず阿部は抜かりなく予約した。

「オレさ、傘持ってきてるからさ、いっしょに帰ってやるな!?」

その声のあまりの弾み具合に、一同は思わずほのぼのした気分になった。
が、次に三橋が返した言葉を聞いてほぼ全員が凍りついた。

「あ、でもオレ・・・・・・・」
「は?」
「傘、持ってるんだ、 よ!」

すぅ っと、部屋の温度が下がった。
それに頓着することなく、三橋は嬉しそうに 「うひ」 と笑った。

何でこの空気に気付かないんだよ!!!

とは一同心の声である。
さすが阿部の相手を務めるだけのことはある (いろいろな意味で)、
と妙な感心の仕方をする一同の見ている前で、三橋は珍しく誇らしげな顔をしながら
自分の鞄をごそごそと探って折り畳み傘を取り出した。

「ほら。 今日はオレ、持ってきた、んだ!」

嬉しそうに言う三橋に罪はない。 微塵もない。
本人にしてみれば 「迷惑をかけないで済む」 と内心でホっとしているに違いない。
何で今日に限ってそんなキャラに合わないことすんだよ!
という叫びは、それぞれの胸の内でなされたので三橋の耳に届くことはなかった。

冷え冷えした空気の中、温度を下げている張本人である阿部は
呆然、という呈で三橋の折り畳み傘をまじまじと凝視していた。
と思ったら、やにわに水谷に視線を移した。 正確には睨んだ。
水谷は 「ひ」 と口の中で小さくつぶやいて後ずさった。

「水谷、今日傘ねーよな?!」
「え?  あー、オレも」

折り畳み持ってきてる、 と続けて言おうとした水谷はそこで
田島に弾丸のように脇腹をつつかれてぱくりと口を閉じた。
というか、 「ぐっ」 と息を詰まらせて言葉を止めた。
それきり敢えて続きを言おうとしなかったのは、田島の行動から何かを
察しただけでなく、水谷なりに不穏な空気をひしひしと感じたからである。
なにしろ阿部の目が。
怖い。
ヘタなこと言ったらただじゃおかねーと、そのぎらぎらした目が言っているような気がする。
気がするじゃなくて言っている。

「持ってねぇよな?!!!」

畳み掛けるように地を這うような声で言われて、水谷は本能的に頷いた。

「う、うん」
「じゃあ三橋のを水谷に貸してやればいいよ!!」
「え」
「そんで三橋はオレが入れてやるからさ!!」

三橋は一瞬とまどった顔をしたものの、引き攣った顔の水谷が小刻みに頷いているし
自分が役に立てる、という展開が嬉しいのか、ほわっと控え目に微笑んだ。

「じゃ、じゃあそうする・・・・・・・・」

ほーっと一同の口からため息が漏れた。
部屋の温度がすいっと上昇したように思える。
まるで真冬の凍てついた氷がみるみる溶けて、春の息吹が聞こえるような変化である。
良かった良かった一件落着。
と誰もが安堵し、部室の中にはなごやかな温かい何かが満ち満ちた。
水谷も皆と同じく安堵した。 安堵し過ぎた。

「じゃあオレ、今日の練習内容監督に確認してくるよ」

花井の晴れやかな声に一同がにこにこと頷いて、すべてが上手くいくように思えた、
次の瞬間。

「あれ? でも雨やんでねえ?」


ぴし。   という擬音がほぼ全員の耳に聞こえた。


それを言った水谷は悪くない。 
だって実際やんでいるばかりか、よく見ると空の一角に虹まで出現している。
水谷にしてみれば 「三橋が喜ぶな!」 という心遣いから出てきた
何気ない、かつ優しい一言である。
が、部室の中には一転してブリザードが吹き荒れた。 つかのまの春であった。

「あ、ほんと、 だ!!」

またもやブリザードなど物ともしない三橋に尊敬の念を抱く一同である。

阿部は。

横目で水谷を見た。

水谷は蒼白になった。
そして今度は後ずさる、なんてもんじゃなくそそくさと栄口の後ろに逃げ込んだ。
でも晴れたのは水谷のせいじゃないし、当の三橋は喜んでるじゃん!!
とはまたそれぞれの胸のうちで叫ばれたので、ここでも阿部の耳には届かない。

「あ、阿部・・・・・・・・・」

突っ立ったまま微動だにしない阿部に声をかけながら、花井は激しく慌てていた。
湿ったバクハツブツがバクハツしたらどうしよう。
いくら阿部が恋にトチ狂っているからといって、理不尽な暴力には走らないだろう、
阿部だってバカじゃないんだし、鬼でもない
と頭では思いながらもどこかで不安が拭えない。 だって何しろ阿部だから。
その場合どうやって止めよう。
でも全員で一丸となれば
等々忙しなく考えを巡らせながら無意識に己の胃の辺りに手がいってしまう。

全員 (三橋以外) が硬直したまま、緊迫の数秒が過ぎた。

しかし、固唾を呑んで見守っていた大方の予想は外れた。
阿部は無言のままふらりとよろけたかと思うとがっくりと、床に膝をついたのである。
俯いて顔が見えないのはある意味幸いかもしれない。  本人にとっても周りにとっても。

「阿部、くん?」

心配そうに声をかけたのはもちろん三橋である。

「どうしたの・・・・・・・?」
「・・・・・・・。」
「ぐ、具合、悪い・・・・・・・??」
「大丈夫・・・・・・・」

答える阿部の声が、かすかに震えている。

「れ、練習、できる、よ!! 阿部くん!」

弾んだ声で言う三橋に、そこで阿部は顔を上げた。 そして。

「良かったな、三橋・・・・・・・」

赤い目をしながら、三橋に向かって弱々しく微笑みかけたその姿に。

全員がうっかり心打たれてしまった。

なんて健気なんだ!!!!!

とまたもや内心だけで感動の涙を流しながら、
このハタメイワクな恋する男のために。

次の機会を心の底から祈ってやった、心優しき西浦野球部の面々なのであった。
















                                                  晴れのち雨 了

                                                  SSTOPへ







                                                   オトメというよりは以下省略。