花井君の逆襲





阿部は目ざとい。
特に三橋のことについてはおそろしくよく気がつく。  その時も例外ではなく。

「三橋、血ぃ出てる」
「うぇ?」

三橋は着替えの手を止めて、きょとんとした。

「唇」
「え・・・・・・、あ」

三橋の唇が荒れていてほんの僅か、血が滲んでいるのを阿部は指摘したのだ。

「へ、 平気・・・・・」
「軟膏、塗ってやる。」
「え?」
「待ってな。」

近くでこっそりとため息をついたのは花井である。
できればすぐにでもこの場を離れたい。
でももう練習は終わっているし、自分は部誌を書かないと出ることは叶わないのだ。
さっさと書いてさっさと出よう、 と花井は内心で1人ごちる。
そんな花井の賢明かつ必死の判断などには頓着なく阿部は自分の荷物から
軟膏を取り出してきた。

「口閉じて。」
「え・・・・・あの、オレ自分で、」
「いいから」
「う、 でも」
「オレがやる。」
「・・・・・・・・・・・・・。」

三橋は諦めて口を閉じた。
こういう時の阿部は言い出したら引かない、ということを経験からよく知っていたからだ。
阿部の指が軟膏をすくって三橋の唇をそっとなぞった。
花井はいたたまれない気分になった。

(キスしてるわけじゃあるまいし。)

頭ではそう思う。
世話焼き女房が手間のかかる旦那に荒れ止めのクリームを塗っているだけ、である。
普通のバッテリーがここまでするとは思えないけど、
ことこの2人に関しては仕方ない、と諦めているあたり花井も気付かぬうちに相当麻痺している。
そもそも付き合っているんだし。
もっとも、それ以前からこれくらいのことはしかねない女房であったから、
麻痺にも年季が入っている。
なので花井はこの時点では健気にも自分に言い聞かせた。

(そうだ。 別に変なことはしてない)

多少親密の度合が深いだけ、 と理性で考えながらも。

(なのに何で。)

花井は書くことに没頭するフリをしながら、2人のほうにちらりと視線を走らせた。

(こんなにイヤらしい雰囲気になるんだ・・・・・・・・)

いまや三橋は目を閉じて、頬をピンクに染めている。
いやピンクなのは頬だけでなく、2人を取り巻く空気までモモイロに見えるのは
決して気のせいなんかじゃないと花井は疲れた気分で確信した。

阿部はゆっくりゆっくりと、三橋の唇を丁寧になぞっている。
早く終わりますようにと願いながら、花井がペンを握り直したその時。

「・・・・・・ん・・・・・」

ぽとりと、シャーペンを取り落とした。

(み、三橋・・・・・・・)

その変な声をヤメろ!  と喉元まで出かかったのを辛くもこらえた。
三橋に言っても意味がない。   元凶は阿部である。
その証拠に三橋は声を発した後みるみるうろたえた顔になって、ピンクを通り越して赤くなった。
それを見て当たり前のことのように阿部が言った。

「感じちゃった?」

(阿部ぇ!!!)

と叫びそうになったのをまたぎりぎりのところで踏みとどまった。
一瞬混乱したからだ。
阿部の口調は楽しそうな響きがあったのも確かだが、
「今日はいい天気だな」 と言うのと大差なかった。
てことはつまりこれは普通なのか。
普通のバッテリーなら唇にクリームを塗って赤くなって
「感じた?」 なんてセリフをお天気の話みたいにさらっと言うのかそうなのか。

(なワケあるかぁ!!!!!)

内心で絶叫した。 麻痺にも限度というものがあるのである。
しかし通常阿部は三橋とのことは一応隠そうと意識しているように見える。
おそらく、三橋が嫌がるから。
なのになぜこの場ではそんな際どいセリフを吐くかというと。

そこまで考えて花井は、 ごほん! とわざとらしい咳払いをひとつした。

(こいつ、オレの存在を忘れてるんじゃ・・・・・・・・)

しかし、そんな花井の祈るような抗議行動を阿部はきれいさっぱりと無視した。

「唇もちゃんとケアしろよ」
「・・・え・・・・・でも」
「でもじゃない。」
「でも、野球には・・・・・・・」
「そうじゃなくて、オレがキスするとき」
「阿部ぇえ!!!!」

今度こそ、花井は叫んだ。 だけでなくすごい勢いで立ち上がった。
さすがの阿部も今度は無視することなく顔を花井に向けた。

「何だよ」
「頼むからさ」
「え?」
「ここ部室だぜ?」
「わかってるよ」
「オレがいるんだぜ?!」
「それで?」

花井は泣きたくなった。

「そういう会話は2人だけの時にしてくれよ・・・・・・・」
「え・・・・・でも、花井は知ってんじゃん。」
(そういう問題じゃねーんだよ!!!)

・・・・・と叫びたいのをまたかろうじて堪えて花井は静かに言った。

「そうだけど、恥ずかしいだろ?」
「え、別に」
(おい!!)

もはや口調は諭すのと懇願が混じったようなものになる。

「おまえが恥ずかしくなくてもオレが恥ずかしいんだって・・・・・・・・」
「花井ってさ」
「なに」
「繊細だよな・・・・・・」

おまえが無神経過ぎんだよ!!!  と心で叫びながら、
花井は一瞬いつもの諦めの心境になりかけた。
が、そこで天啓のように ぴん! と閃いたことがあった。
それは大変な危険を伴うことでもあったけど、やってみる価値はある、と
判断したのはもう心底やけくそな気分になっていたからだ。
どうとでもなれ  という捨て鉢な心持ちだった。
ごくりと唾を飲み込んでから、花井はおもむろに口を開いた。

「さっきの三橋の声」

阿部の表情があからさまに変化した。 
うっかりびびりそうになる気分を抑え込んで、しらっとした顔を作りながら続きを言った。

「すげぇ色っぽかったな。」

阿部の目がぎらりと光り、三橋は耳まで赤く染まった。

「それにその前の三橋の顔も」
「花井!!!!」

さえぎる声は怒声に近かったけど、予想の範囲内だ。

「なんだよ!!!!!」

阿部が花井をまっすぐに見据え、花井も逸らすことなく睨み返した。
瞬間部室には火花が散った。 (と花井は思った。)

阿部の目が異様に怖い。 同時に全身から噴き出す黒い何かが見えるようだ。
でも花井はその視線をはっしと受け止め一歩も怯まなかった。
部室は自分が多くの時間を過ごす場所なのだ。
しかもなぜかこの3人のメンバーだけになる機会が不幸にしてよくある。
その度にピンク色に染まるのでは居心地が悪いことこのうえない。

花井は必死であった。

三橋は今はもう青い顔をしておろおろモードに突入している。
阿部と花井は睨み合ったまま、微動だにしない。
異常に緊迫した数秒が過ぎた。

しかし次の瞬間。

阿部の発する黒いオーラがすうっと消えた。 (ように花井には見えた。)

「・・・・・・悪かった。」

一瞬ぽかんとした。

「今度からは気を付けるよ。」

耳にした言葉が信じられなくて呆けた直後に我に返って。

(勝った・・・・!!!!)

まず思ったのはそれだった。

「頼むぜ?」

言いながら、感動のあまり涙が出そうだった。
咄嗟に思いついた無謀な作戦ではあったが (そしてほとんどダメもとのつもりだったが)
阿部には見事に効いたのである。



一方結局折れた形になった阿部は内心で少々面白くなかった、が。
三橋の色っぽい顔だの声だのを他のヤツに晒す結果になってしまうのは
ゲンミツに嫌だった。
その嫌さ加減に比べれば自分のプライドなど塵に等しい。
花井にはどうせバレているし、という気の緩みがあってあまり深く考えていなかったが、
見てないような顔をしてちゃんと見ていたのだ、とわかった以上は
気を付けなければならない、 と己を戒めた。

(それに)   と阿部は心の中でつぶやいた。
(2人きりになれることだって結構あるしな。)

なければ作るまでだ、と考えてこっそりと笑った、
つもりだったが、その何やら黒い笑みをまた花井はしかと見てしまった。
またもや冷やりと、背筋が冷えるのを感じながらも、
ピンクの空気より黒い笑みのほうがまだマシだとそこは諦めることにする。

(・・・・・・・これからもずっと)

オレはこうやってあてられたり、ヒヤっとしたりすんのかなー と
花井はげんなりと考えて本日何度目かのため息をついた。

しかし何はともあれ、

三橋を巡る (三角関係に非ず) 阿部と花井の攻防の、
花井勝利の初めての輝かしい瞬間であった。














                                                花井君の逆襲 了

                                                  SSTOPへ






                                                 くっつくのに一役買ったのが運の尽きだと思う。