バラ色のスタート





盛大に滑って転びかけたのを辛くも踏みとどまってから
思惑外れ、 という単語が阿部の頭に浮かんだ。
こんなはずではなかった。

呆然としながら三橋を見やると、その動作はいかにも安定している。
真っ白な雪景色が今さら目に痛い。
陽光にきらきらと輝く純白の風景を、きれいと感じる余裕がないのは
今現在の個人的事情のせいだ。

先刻の会話が脳裏に蘇る。 最初は純粋に心配だけだった。

「おまえ、こんな雪だとすぐ転びそうだな」
「うへ」
「笑い事じゃねーよ! ったく・・・・・」
「で、でも へーき、だよ」
「平気じゃねーかもだろ? うっかり捻ったりしたら」
「じゃなくて」
「はあ?」
「オレ、だいじょぶ。 転ば ない」

自信ありげな言い方に 珍しい、と密かに驚いてからふいに思いついた。
続きの会話は思惑の固まりとなった。

「・・・・・・じゃあ勝負しないか?」
「へ・・・・・・・」
「雪かき、オレもいっしょにやるよ」
「え、う、うん!」
「そんで先に滑って転んだほうが負け」
「えっ・・・・・・・」
「で、負けたほうが勝ったほうの言うことを何でも聞くってのどう?」

いい考えだ、とその時阿部はこっそりとほくそえんだ。
少し躊躇った後に三橋が頷いた時に実際ににんまりと笑ってしまったのは、
自信があったからだ。  その後自分もスコップを手にしてグラウンドの雪かきを始めながら、
描いていた予定の展開図はこうだった。
早々に雪に滑って転ぶ三橋、をかっこよく助け起こしてどさくさに紛れて手など握りつつ
「オレの言うこと聞くよな?」 と笑顔になる自分。

聞いて欲しいことは全然大したことじゃない、多分。
多分、というのは阿部にとっては大したことだからだ。

2人きりで初詣に行きたい。

たかがそれだけのことだ。 わざわざ勝負を持ち出してまで
叶えようとする類のことではない。 わかってる。
けれど家を出る前、自宅の自室で携帯を開けたり閉じたりしながら阿部は
さんざん悩んだのだ。

簡単なことだ。  頭ではそう思う。
三橋の携帯にかけて、まずは無難に新年の挨拶なぞしてから、普通に誘えばいいのだ。
『初詣、いっしょに行かねえ?』 
ただそう言えばいいのだ。  簡単だ。
バッテリーなんだし、相棒を誘うことは別に変じゃない。 きっと普通だ。
正月3日目の今日三橋が群馬から戻っていることも知っている。
年末にさり気なく確認したからだ。 その点の抜かりもない。 
だから大丈夫、何の問題もない、うん。

と1人頷いて携帯を操作しようとしてから でも、と阿部は指を止める。
もし断られたら、と不安が湧くのは、そんなに気安い間柄なのかと誰かに問われれば
自信満々で肯定できない切なくも情けない現状があるからだ。
仮に断られなかったとしても、明らかに 「嫌われたくないから応じた」 という
姿勢が透けて見えたら凹むことは必至だ。
誰だって新年早々から落ち込みたくはない。

同じところをどうどうと10回以上巡った挙句、
結局あれこれの恐れのほうに軍配が上がった時、阿部は長いため息をついた。
年が変わったからといって、当たり前だけど人間変われるわけじゃない。

閉じた携帯を放り出してから、ふと学校に行こうと思い立ったのは
珍しく降り続いた雪にグラウンドの様子が心配になったからで、期待など微塵もなかった。
だから陽光に輝く真っ白な世界にぽつんと1人、雪かきに勤しむ姿が
他でもない三橋のものだと認めた時は、
思わず願望が見せた幻かと数回瞬きして、それから歓喜が湧いた。 
神様ありがとうと小さくガッツポーズまで作った。 新年早々幸先がいい。
三橋がいる場所がちょうどマウンドの位置であることに気付いて頬を緩めながら、
諦めたはずの 「2人きりの初詣」 の野望が再びむくむくと頭をもたげたのは
当然と言えよう。

年の初めに、密かに想っている相手とプライベートで出かけたい。
新年の始まりを幸先良くバラ色に染めたいと願うことのどこが悪い。
相手が悪い、という点は今さら考えない。 そんな段階はとうに過ぎた。
バラ色のスタートは己の頑張りと裁量次第で叶いそうで、
浮き立つような気分で声をかけた。 そこまでは良かった。

「三橋」
「あ、阿部くん?」

驚いたように振り向いた三橋が僅かによろけた。 雪のせいだろうとは思ったのだが。

「気ぃつけろよおまえは」

咄嗟に出た声はキツい調子になってしまった。
「ああ今年最初の言葉がこれか」 とぐったりしたことなど三橋は知らないに違いない。
バラ色の始まりに早くも翳りが差して、阿部は内心で焦った。

神様の好意を無にしないためにも、ここは挽回したいところだ。
何とかして2人で出かけて、少しでも距離を縮めたい。
勝負を思いついたのはその後の会話の成り行きによる偶然だったけど、
絶対断れない状況を作りたかった。 そして予想した展開は簡単に現実になるはずだった。
よく考えれば根拠は、ない。

(しまった・・・・・・・・)

今さら悟っても遅い。 現実は予想図の真逆だった。
先に滑ったのは自分のほうで、辛くも転ぶまでは至らなかったものの
阿部は認めざるを得ない。  三橋のほうが雪には慣れているのだ。
自信ありそうな言葉は嘘ではなかった。 本当に自信があったのだ。
雪に滑るか否かは、慣れが大きい。
群馬のほうが雪が多いという事実を忘れていたうえに、
三橋はよく転ぶ、注意が足りない粗忽者、という普段のイメージと
直前に実際に滑ったのを見たことが判断を狂わせた。

(くそっ・・・・・・)

危なげなく慣れた手つきで雪を掻いていく三橋の様子に落胆したものの
阿部はそれでも頑張った。 だって初詣に行きたかったから。
正直お参りなんてどうでもいいのだが、年初めデートへの未練を捨てられない。 
たとえそれが自分にとってだけであろうと、最初は大事だ。
恋する男を嘗めんなよ、 と妙な闘志を雪に漲らせる辺り末期であるわけだが、
ムキになったのが悪い方に作用した。

あ、 と次に焦った時にはもう風景は斜めに傾いでいた。 立て直す余裕も今度はなく、
「さようなら初詣」 と瞬間掠めた。 ああかっこわるい、とも。
却って清々しいぜ、 と己で突っ込んだくらいの派手な転び方だった。
通常なら相当な痛みを伴うくらいの勢いだったのに感じないのは
半分は雪のクッションのおかげだろうが、半分は体よりも心の痛手のが大きいせいだろう。
誰だって好きな相手には良いところを見せたいのだ。 阿部とてそれは例外ではなく。

「だだだ大丈夫・・・・?」

と、ここでも容易く駆け寄ってくる三橋の顔が本気で心配そうなことに、僅かに救われた。
全然大丈夫じゃない、という本音を押し殺して笑ってやる。
立ち上がる気力も出ないことは隠しながら、「大丈夫」 と言葉でも安心させてやる。

(終わったら、帰ろ・・・・・)

潔く、かつ悄然とした気分で諦めたところで三橋が言った。

「オ、オレの 勝ち だね」

それで思いだした。 そうだった、自分は勝負に負けたのだ。
己の予想図を信じて疑ってなかったからか、負けた場合のことを失念していた。

「うん。 そうだな」
「じゃ、じゃあ、あのオレ、 お願いが あるんだけど」

何だろう、 という好奇心よりもダメージのがまだ大きい。
さようならバラ色の始まり。

三橋が目をぎゅっと瞑ってから開く、というのを2回やり、次に
口をぱくりと開けてから閉める、というのを3回繰り返すのを
阿部はまだ座り込みながらぼんやりと見ていた。
なかなか言い出さない三橋に、いつもなら即行で湧くはずのイライラも今に限っては無縁だ。
急かす気も起きないまま、とにかく立たないと、と機械的に思った。
三橋の口が4回目に開いたところで、ようやく立ち上がりかけた。
三橋のお願いなんて、投球練習に付き合って欲しい、くらいがせいぜいだろう。
プライベートと果たして言えるのか疑問が湧くような言葉を予想して、
それはそれで悪くはない始まりだと、自分を慰めたところで。

「あの、こここの後、・・・・・いいいいっしょ、に 初詣に いい行き ませんか」


三橋のまん丸な目を捉えながらまたしても風景が反転した。 3度目だ。
びっくりしたせいでまた滑った、 らしいと他人事みたいに認識したけど、
これだけやればもはやかっこ悪いとも思わない。 
もちろん、そんなことはどうでもいい。 かっこ悪いの上等。
同じところを打ったようだけど、痛みも全然これっぽちも感じない。 
きっとさっきとは別の理由で。
その前に長くへたりこんでいたせいで、尻が冷たい気もするけど
そんなことも当然へでもない。 なぜならば。

今や阿部の世界はバラ色の光に満ちて、これ以上ないくらいにきらきらと
美しく輝いているからだ。


世界がこんなに綺麗だなんて今の今まで知らなかった。
ほんの一瞬で別世界と化したようだ。
見上げる三橋のびっくり顔も、周囲の雪もさっきとはまるで違って見える。
一言で自分の世界を一変させたことなど三橋はわかってないだろうな、と
歓喜半分切なさ半分で思ったけれど。

「おう、行こうぜ!」

その瞬間に三橋の世界もまた、同じように輝いたことを
阿部はまだ知らない。














                                             バラ色のスタート 了

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                                                    新年早々2人して必死。